
この記事は村本治医師の許可を得て掲載する「エホバの証人情報センター」の記事です。原文のまま掲載をしております。趣旨についてはこちらをご覧ください。
エホバの証人と聞くと、「ああ、あの輸血を拒否する人たち」という反応を示す人は少なくありません。確かに輸血、ならびに血液製剤による医学治療を避けることは、エホバの証人の教義の中でも最もユニークなものの一つと言えるでしょう。多くのキリスト教宗派、ユダヤ教などの聖書を使用する宗教の中でも、医療行為一般を拒否する小さな宗派は知られていますが、エホバの証人のように血液による治療だけを取り上げて、命がけでこれを拒否する宗教は他にありません。
しかし、エホバの証人のこのユニークな血の教えの、細かな内容を理解できる一般の人はわずかしかいません。大部分の人は、「聖書に血を食べていけないと書いてあることを文字通りに守っているだけ」と簡単に理解しています。しかし、この血の教えには複雑な聖書的理由付けと、歴史的背景があります。また、その教義も単に輸血を拒否するだけでなく、更にもっと細かい医療行為にまで及んでいるのです。
またその一方で、エホバの証人の兄弟姉妹の中には、この複雑な教えの問題点を認識し、血の教えを含むエホバの証人の教義とその組織を、より柔軟性をもったものに変えようとする内部改革の動きが、主に北アメリカと北ヨーロッパの国々で静かに広がっています。これらの兄弟姉妹たちは、現時点では表面に出ての発言は控えていますが、インターネット上で活発な運動を繰り広げています。
このウェブサイトでは、エホバの証人の血の教えがどのようなものか、輸血を拒否する聖書的な根拠は何か、更に医学的な問題点と医療従事者の対応、この教えの社会的な意味などを論じ、一般のエホバの証人以外の方々が、その教えを深く理解する手助けとすると共に、エホバの証人の兄弟姉妹に対しては、内部改革の為の討論の材料を提供したいと考えております。このウェブサイトは、ものみの塔協会とは直接関係はしていませんが、現在のエホバの証人の長老が執筆に加わっており、内容の正確さに関しては細心の注意が払われています。
第一章 エホバの証人の医学・医療に関する教えの歴史
19世紀後半のアメリカで、ものみの塔の宗教を創始した、チャールズ・ラッセルは、多くの19世紀の新興宗教指導者と同様、科学の神秘に魅せられた一人でした。そのよい例は、エジプトのピラミッドにエホバの神秘が隠されている、プレアデス星団にエホバの座がある、等という、現在のエホバの証人は異端とするような教えに、端的に見られます。しかし、彼は人間社会の科学技術の発展に対しては否定的な見方は持っていませんでした。
1916年にラッセルの死後、第二代目の会長となったジョセフ・ラザフォードもまた科学技術に魅了された一人でしたが、彼が会長である間に出版された多くのものみの塔の出版物には、数多くの科学技術関係、特に医学・医療に関する記事が連綿と掲載されました。その推進役となったのは、ラザフォードの右腕として「黄金時代」(現在の「目ざめよ!」誌の前身)の執筆に中心的な役割をはたした、クレイトン・ウッドワースでした。彼は、ラザフォードと共に、1917年に出版された興味深い出版物「終了された秘義」を執筆したことでも有名です。
ウッドワースが中心的な役割を果たした、1923年から約三十年間のあいだに、ものみの塔協会は非常に興味深い、医学関係の記事を掲載し続け、その幾つかは、現在のエホバの証人の信仰生活にも影響を与えています。その興味あるものをいくつか取り上げて見ましょう。
目次
朝食について
朝の食事に適した食物はない。朝食(breakfast)は決して絶食(fast)を破る(break)時ではない。毎日の絶食を昼時まで続けなさい。‥‥毎食の二時間前にたくさんの水を飲みなさい。食べる直前は飲んではいけません。食事の最中はほんの少しだけ飲むこと。バターミルクは健康的な飲み物で食事時や食間に飲みなさい。食後二時間が過ぎるまでは風呂に入らないこと。食前一時間以内もよくない。コップ一杯の水を風呂の前と後に飲みなさい。(「黄金時代」1925年9月9日784-785頁)
日光浴について
日光浴は健康と長寿に最も役立つ入浴法である。しかし他の良いことと同じように、間違ったやり方や、やりすぎは、その効力を損なう。午前中のなるべく早い時期に日光浴をすれば、より効果があがる、というのは治療効果のある紫外線がより多く浴びられるからだ。(「黄金時代」1933年9月13日777頁)
肝臓について
いわゆる医科学と言われるものはまた「発見」をした。‥‥素人は肝臓の構造も機能も何も知らない。もしそれを知っていたら、医学の愚かな発見によって、肝臓を食べることがいいなどと、信じこまされなかっただろう。(「黄金時代」1929年1月9日245頁)
寝る方向について
寝るときは右下か仰向けで寝ること。頭は北に向けて寝なさい。そうすれば地球の磁石の流れの恩恵がえられる。(「黄金時代」1929年11月12日107頁)
オリープ油について
どれだけの人がオリープ油の治療効果を知っているだろうか。‥‥私はオリープ油の使用により肝臓病、胆石の直った人を一人以上知っている。‥‥私の友達は盲腸のあたりの痛みに長年悩まされていたが、オリープ油の治療によって完全に直ってしまった。(「黄金時代」1935年7月5日632頁)
病気の起源について
人間の全ての病気は腸から始まる。(「黄金時代」1928年11月28日133頁))
これらの例で見られるように、ものみの塔の出版物に連綿と続く伝統は、不確かな情報、見解をあたかも確かなもののように、もっともらしい確信をもって読者(エホバの証人)に伝えることと言えるでしょう。
アルミニウム食器の危害にについて
「黄金時代」に掲載された多くの医学記事の中で、アルミニウム食器に関するものは、この不確かなものを確かなこととして、エホバの証人に広範に信じさせるに至ったよい事例でしょう。ものみの塔のこの当時の見解では、アルミニウムの食器は癌から水虫まで、ありとあらゆる病気の原因でした。「黄金時代」誌はアルミニウム食器の害を警告する記事を、長年にわたり繰り返し掲載しました。これらの一連の記事の中で、ものみの塔協会は終始、アルミニウムの食器は悪魔の霊感を得た人類に対するのろいであり、様々の食物に関した病気の原因であると説きました。
この結果、当時のエホバの証人の多くはアルミニウムの食器を使っているレストランを避けたり、食中毒が起こるとアルミニウムの食器のせいにしたりしました。「黄金時代」への読者の投稿では、読者がアルミニウムの食器を使うことを止めたことにより、子供の多くの病気が直ったなどという手紙が掲載されました。確かに、ものみの塔だけでなく、医学界にアルミニウムの食器の健康に対する危険を警告する説は出されていたことは確かです。しかし、それは当時でも、一つの学説に過ぎず、その後、アルミニウム食器と病気との関係は認められないという疫学的な最終結論が出された後でも、ものみの塔協会は、長年その独断的態度を変えようとはしませんでした。
医師、医学界に対する態度
ものみの塔の医学・医療に関する態度を端的に要約するものは、その医師、医学界に対する徹底した、不信と侮蔑の態度と言えるでしょう。
医者たちが使う薬や、血清や、予防接種や、手術などは、時々行われる外科的な処置を除いては、何の価値も無いということを、われわれは肝に銘じておくべきである。彼らの言う、いわゆる「科学」はエジプトの黒魔術から始まっており、その悪魔的な性質を失っていないのである。‥‥「黄金時代」の読者は僧職者の不愉快な真実を知っている。同じように、読者は、医者についての真実も知るべきである。彼らは「神学博士」と同様に悪魔崇拝をする呪い師(医者祭司)から始まったのである。(「黄金時代」1931年8月5日727頁)
ものみの塔協会の攻撃はアメリカ医師会とその機関誌、アメリカ医師会雑誌(JAMA)にも及びます。アメリカ医師会雑誌は、当時、「黄金時代」やその他の雑誌で取り上げられている、いかがわしい科学的根拠のない民間療法や、いかさま治療に対して、監視の目を光らせていたからです。これに対し、次の黄金時代の記事では、別のいかさま治療の雑誌の記事を支持する形で、次のように引用しています。
アメリカ医師会雑誌は、アメリカの郵便を通して配られる雑誌の中で、最も悪辣なものである。‥‥新しく、役に立つ治療法はすべてこの雑誌の根拠のない非難を免れられない。その攻撃は一般的に言って偏見に訴えるものである。その論説は主に個人攻撃に集中している。‥‥その編集者[Morris Fishbein]はイエス・キリストを十字架にかけたようなユダヤ人である。(「黄金時代」1934年9月26日807頁)
この本文の主旨とは直接関係はありませんが、この「黄金時代」の記事の中でも、ものみの塔協会が明らかに、当時台頭していたヒットラー政権の思想と同じ反ユダヤ人の差別感情(antisemitism)を煽っていたこと、十字架の使用を問題にしていなかったことが、うかがえます。
感染症の病原体起源説に対する非難
このような、ものみの塔協会による医師・医療の批判は、科学的に確立されつつあった医学知識に対する、無知とも言える攻撃に発展しています。その当時、感染症が病原体によって引き起こされることは、パスツールにより19世紀に確立され、それに従って予防医学が育ちつつある時期でした。ものみの塔協会は、その雑誌、「黄金時代」、「慰め」(「黄金時代」と現在の「目ざめよ!」との中間で使われた雑誌名)を通じて徹底的に、感染症の病原体起源を否定し続けました。ものみの塔によれば、感染症から細菌が発見されるのは、その細菌が病気を引き起こしているのでなく、病気で弱った体が細菌を発生させる、つまり、細菌は病気の原因ではなく、結果であると信じていました。
医学は悪魔学に起源を発し、過去約一世紀半前までは、悪魔を追い払うことに時間を費やしてきた。過去約半世紀の間、医学は細菌を追い払うことを試みている。(「黄金時代」1931年8月5日728頁)
細菌によって引き起こされると証明された病気は、今までにただの一つもない。(「黄金時代」1924年1月16日250頁)
次の記事は、現代の微生物学の父と言われ、19世紀後半にフランスで感染症の病原体起源説を発表し、その後の医学、公衆衛生に計り知れない貢献をした、ルイ・パスツールを、臆面もなく、しかも根拠も上げずに攻撃しています。
「パスツールは偽物」
恐水病(狂犬病)は現実のものというより、心の中の作り事である。この病気に金がからんでいなかったら、この病気はとっくに無くなっていたであろう。‥‥「パスツールは恐水病を直さない、彼はそれを植え付ける」。‥‥パスツールは、この映画が描くような公共福祉の貢献者とはほど遠く、彼の教えは何百万人の数え切れない人間の健康を害し、世界中の無数の命を奪ったのである。パスツールの興味は富と名声が第一だったのだ。(「黄金時代」1936年9月23日814頁)
しかしごく最近の問題は、犬に対する狂犬病予防接種の義務づけである。「政治的医療者」たちは一致して、狂犬病を予防するという名目で、何も知らない人々に、彼らの犬に予防接種を受ける義務を押しつけようとしている。狂犬病!狂犬病などというものは存在しないということは、とっくの昔に結論されているではないか!(「黄金時代」1923年1月3日214頁)
この病原体起源説に真っ向から反対することは、牛乳の殺菌をも否定することになりました。次の記事は、ものみの塔のその立場を明確に示しています。
多くの市では、すべての牛乳はその市で販売される前に、病気を予防するという名目の元に、先ず高温の熱を通さなければならないという条例が施行されている。この過程により、牛乳は腐敗し、化学成分は変化し、変質して、もはや食物としては適さなくなるのである。(「黄金時代」1925年1月28日268頁)
ものみの塔は、高温殺菌した牛乳を飲むことを危険であると教え、生の殺菌していない牛乳が、健康に良いから飲むようにと奨励し続けました。更に、感染症が病原菌で起こるということを頑固に拒否していたものみの塔は、エホバの証人が食中毒にかかると、食品衛生の改善により、病原菌の混入と増殖を防ぐことを推奨するのでなく、食中毒をアルミニウムの食器のせいにし、アルミニウムを避けることをますます力説したのでした。
ものみの塔協会により推奨された医療の数々
ものみの塔協会による癌の治療
これは、まだラッセルが会長をつとめている時代のものみの塔誌の記事です。
われわれは、最近、体表にできる癌に対する大変効果的で、簡単な治療法を知った。われわれは、医師がその効能を試してみたのち、その情報を1000ドルで買い取り、癌病院を設立し、治療は順調にいっていると聞いている。その処方はわれわれの所にただで来ており、われわれはその処方を伝えたいと思う。しかしこれは体表の癌に悩まされている人で、われわれに直接手紙を書いて、状態を知らせてくれた者に限る。料金は徴収しないが、患者を守るために、その者は処方を他人に売ったり、その使用によって支払いを受けたり、処方を他人に教えたりしないことの約束を必要とする。誰でも癌の患者であれば、われわれの所から処方箋の得られるこれらの条件について知らせを受けられる。(「ものみの塔」1913年7月1日200頁)
葡萄療法
1928年の「黄金時代」には、ジョハンナ・ブラントという人間が考案した「葡萄療法」が癌によく効くとして推奨されています。これは絶食をして三度三度、葡萄だけを食べ続けるという治療法でした。そこに紹介されている理論は奇想天外であり、葡萄は磁力を持っており、太陽の振動力と一緒になって病気を治療するという、オカルトがかったものでした。
ものみの塔協会による偽医療器械の推奨
ものみの塔協会は単に、科学的な当時の現代の医学に反対していただけでなく、彼ら自身、偽の治療器械を推奨していました。その理論的根拠となったのは、「黄金時代」誌で繰り返し紹介された、ラジオニクスという、いかさま医学でした。これはアブラムスという人間の作り上げたE.R.A.(The Electronic Reactions of Abrams)という、見えない振動、電波、光線を使って診断、治療をする、というオカルトを背景を持つ、一世を風靡した偽医学の一つでした。1925年4月22日の「黄金時代」451-455ページには「自動電気診断機」というタイトルの記事が載っていますが、この器械は、このラジオニクスによるいかさま治療の典型でした。この記事はドクター・ギャンブルという、このいかさま治療器を使う、エホバの証人(当時はまだ聖書研究生と呼んでいた)の医師の執筆ということになっていますが、この記事の冒頭で、「黄金時代」の編集者は、このドクターに完全な信頼をおいており、読者(エホバの証人)にこの重要な記事を大きな関心を持って読むようにと勧めています。この記事の中から、ものみの塔協会が、パスツールを弾劾する一方で、どのような医学に、エホバの証人を導いていたかを見てみましょう。
病気は悪い振動から
ここまで述べたことから明らかなことは、どのような病気も、単にその個体の一部の状態が、「調子外れ」になっているだけのことである。言い換えれば、体の冒された部分は、正常より高い、あるいは低い調子で振動するのである。この部分は、他の体の部分と異なった振動をするのである。そこはバランスがとれていない。それが病気なのである。病気の組織は健康な組織よりも多くのエネルギーを放出する。このアンバランスは測定できて、矯正できるのである。‥‥
電気ラジオ・バイオラ
私はこの新発見を電気ラジオ・バイオラと名付けた。この意味は生命が電波あるいは電気により新しくなるということである。私はこれが病気の治療の歴史の中で画期的なものになると信じている。私はこの新発見を一般公開する前に、「黄金時代」の読者にだけ特別に紹介している。バイオラは病気を電気振動を使って自動的に診断し、治療する。その診断は100パーセント正確であり、最も経験のある診断家よりも、この点ではより優れた貢献をし、しかも診断家に払う料金はいらない。
この小さな器械は体のエネルギーを自動的に測定し、もし病気が存在したり、体のエネルギーが平均以下だった場合は、これを矯正する。これは電波振動によって行われ、この振動は人間の体を発電器に変え、抗毒剤の製造所に変える。それは病気の組織の低いバランスを回復し、その働きを徐々に達成する。そして生きている細胞のバランスは完全に回復されるのである。
バイオラの働きは病気の過程の存在と位置とを、大きな障害が起こる前の早期に発見して、電子と体のバランスを並び替えて、自然が臓器や体の一部の回復するのを可能にするのである。
バイオラ波の捕獲
バイオラがその診断において100パーセント正確であることは、普通のラジオ受信機が(人間の体と比較して)、空気や地面の振動を集めるアンテナによって作動することでわかる。アンテナがラジオ受信機に接続されて、正しく周波数を同調された場合は、一つの楽器の音を再生することもできれば、全体のオーケストラも再生できる。これはつまり、一つの病気にかかっているか、あるいは幾つかの病気にかかっているかということに対応している。
操作するに際しては、バイオラは接地電極、あるいは暖房機のラジエターあるいはそれに類する物に接続されており、もう一方は患者の体に接続されている。地球の電流による電磁波は、夫々の体のなかの全ての、そして一つ一つの病気の振動に同調して、自動的に振動する。その病気はいくつあっても、その病気の振動はバイオラの器械に蓄積され、必要に応じて使われる。
バイオラ波の捕獲装置は、これらの病気の振動を捕らえるのに水を媒介として使っている。しかし水はよい伝導体ではないので、その伝導性を増加させるために、ある要素が加えてある。この要素は伝導性を増加させるだけでなく、それに加えて振動を吸収して保存し、また組織や臓器に、病気で破壊された部分を再建するのに必要な薬や要素を届けるのである。すなわち、バイオラは単に病気を破壊する電気的振動を与えるだけでなく、それと同時に、体にその再建に必要な適切な物質を与えるのである。
(「黄金時代」1925年4月22日451-455頁)
驚くことに、このものみの塔協会の出版物で推奨されているこの医療器械は、病気を診断すると同時に直ちに治療してしまう、それも100パーセントの正確さをもって行われる、ということなのです。現在の連邦食品薬品局(FDA)がこれを見たら直ちに、ものみの塔協会は取り調べを受けることになるでしょう。
この長大な「自動電気診断機」の記事は、最後に次のことばで終わっています。そこに書かれていることは、ものみの塔の宗教的教義と、このような偽医学との合体が、起こるべくして起こっていることを示すものと言えましょう。
これらの事柄[バイオラの素晴らしい効力の数々]はそれだけで、われわれが疑いなく「黄金時代」に入りつつあることを示している。それは地球上の全住人によって待ち望まれたものであり、その「黄金時代」には、全ての人々が、完全な状態で、生きることの心からの希望、自由、幸福が得られるのである。(同)
エホバの証人は、現代の世の中には医学でコントロール出来ないほどの悪い病気がはびこり、それが「終わりの日のしるし」であると教えられていますが、この時代には、科学的に確立された医学によらず、このバイオラで健康になることが「終わりの日のしるし」と考えられたのです。
もう一つの驚くべきことは、ものみの塔協会が、この「電気ラジオ・バイオラ」の器械の通信販売の広告まで、「黄金時代」誌に掲載していることです。ものみの塔協会が、その誌上で商品の宣伝をするというのは例外的なことでした。その広告には次のように書かれています。
電気ラジオ・バイオラ自動操作登録商標電気治療器械の最新のことば。すべての人が払える価格であなたを自動的に治療します。もしあなたが病気であったり、生活力が正常以下であったら、バイオラを注文しましょう。バイオラは家族全員を治療するのに使えます。この器械はどこの家庭でも、都市でも田舎でも使えます。使用には電力は必要ありません。バイオラはラジオと同じ原理で動き、その電力を地球の電流の電磁波から取り込みます。バイオラは病気の電波を捕獲貯留する、疾患電波捕獲装置です。これらの病気の電波は、自然がこれらの電波を発生させた病気そのものを破壊するのを助けます。バイオラは次の疾患に適応されます。神経性消化不良。心悸高進。便秘。胆汁症。頭痛。鼓腸。ガス。全ての胃、肝臓、消化管の病気。全ての慢性疾患。今日、今すぐバイオラを注文しましょう。価格35ドル。注文時現金払い。配達10日以内。この値段には、通常の使用に充分なだけのバイオドン(バイオラの中に使われる薬剤)が含まれています。完全で明快な使用説明書はバイオラと共に送られます。注文の送り先バイオラ製造会社 3237 クランビー・ストリート ノーフォーク、バージニア |
(黄金時代 1925年4月22日479頁)
その他、黄金時代誌は、これに類するラジオニクス、あるいはE.R.A.に関係した医療器械を他にも紹介しています。たとえば、患者は紙に自分の名前を書いて、その紙片を器械に入れると、器械は患者の健康状態に関して、イエス、ノーの回答を与えました。その理論によれば、紙の上のインクから、患者の臓器の「電気振動」が読めるのだそうです。これは、何のことはない現代版のウィジャ盤(心霊術で使われる占い用仕掛け板。霊媒や占い師がその板に触れると、その上の文字やことばの上を手が動き、その動きによって霊媒が質問に答える)とも言える、心霊術そのものでした。興味あることに、当時のエホバの証人(当時はまだ聖書研究生と呼んでいた)、ロイ・グッドリッチという人は、このラジオニクスと心霊術との密接な関係に気づき、それを警告する記事を「黄金時代」誌に書きました。しかし、これはものみの塔協会の指導部の不興を買い、彼は排斥処分にされたのでした。(黄金時代 1925年4月22日606-7頁;1930年3月5日355-362頁)
このような、ものみの塔の科学や医学への無知と、奇想天外なアイディアへの盲信を見るとき、ある人々は、これは当時の、遅れていた医学界の時代の風潮に従っていたのに過ぎない、これはやむを得ない間違いではなかったのか、という疑問を持たれるかもしれません。しかし、ものみの塔協会の立場は、本当にその時代の科学や医療の主流の考え方に沿ったものだったのでしょうか。事実は、その当時からこのE.R.A.やそれを使った医療器械は、いかさま医療であることが、警告されていました。たとえば、1923年10月の「科学と発明」誌では、E.P.A.の発明者アブラムスを「現代のペテン師」として取り上げ、その理論が全くのインチキに基づいていることを示しています。インディアナポリスのベター・ビジネス・ビューロー(アメリカ各地にある、消費者保護のための商品監視組織)はその1942年4月のブレティンの中で「前代未聞の最悪な偽医学」として、「黄金時代」があれだけ推奨した電気ラジオ・バイオラの器械について、消費者に対して警告を与えているのです。
ラジオ・ソーラー・パッド
「黄金時代」は当時、放射性物質ラジウムを民間療法に使うことを推奨していました。ラジオ・ソーラー・パッドはこのラジウムを、ベルトに埋め込んで、常に体に放射線を浴びさせるという健康法でした。第二代ものみの塔協会会長のジョゼフ・ラザフォードが、彼の慢性疾患の治療のためにこのベルトを着用していたことはよく知られています。「黄金時代」誌にはこのラジオ・ソーラー・パッドの広告が何度も掲載され、会長の推薦が載っていました。確かに、その当時、放射線の人体に及ぼす、計り知れない危害はまだ知られていませんでした。しかし、このラジウムによる放射線の民間療法を推奨するものみの塔協会は、その一方で、診断用エックス線の使用を、危険なものとして警告しているのです。何を推奨し、何を警告するかは、これで見るように、ものみの塔指導部の個人的な好みによって決定されていたようであり、当時の医学界の知見を尊重することはなかったようです。
結語
このように、医学の歴史の上から見てみると、エホバの証人の歴史は、科学に基づかないいい加減な医学・医療の巣窟とも言え、医学史の研究の上でも興味深いものがあります。何故ものみの塔協会が、このような、いかさま医学に凝っていたかについては、幾つかの考え方があります。一つには、常に不確かな物、あいまいな物を、あたかも確実なこと、絶対的に確立されたこと、として信じ込む、エホバの証人自体の伝統的な体質があることは確かでしょう。上のラジオニクスのいかさま医療について言えば、ものみの塔協会は、病気が病原体の感染によって起こるという、パスツールに始まる理論と実践を受け入れることは、到底できませんでした。そのような立場から言えば、病気は体の一部の異常な振動によって起こるという、アブラムスのE.R.A.の理論は、たとえ心霊術に関係があっても、ものみの塔の病気の理論に最も近いものだったのでした。
このページの主旨は、このような古い記録を持ち出して来て、ものみの塔協会やエホバの証人を辱めることではありません。執筆委員会は、この過去の、ものみの塔協会の数多くの過ちを学ぶ中で、現在のものみの塔協会とエホバの証人の指導部の、医学や血液に関する一見不可解に見える、教えや言動を理解する鍵が隠されていると信じているゆえに、これを取り上げました。エホバの証人の信じる他の「真理」と同じように、いくつもの教えが、時代と共に変化し、廃止されました。「血の教え」はそのような、エホバの証人の「真理」の歴史の中で捉えていく必要があるのです。
次のページでは、現在の「血の教え」により近い、予防接種の問題を、同じように歴史的観点から見てみます。
第二章
予防接種に関する教えの歴史
第一章で見てきたように、ものみの塔協会の医学キャンペーンは、主に「黄金時代」誌の上で、その編集者、クレイトン・ウッドワースの筆で行われてきました。第一章で述べた、多くの医学キャンペーンの他に、一貫して貫かれたものみの塔協会の主張に、予防接種の反対がありました。それがどのような議論によっているのかを、先ず、ものみの塔協会の出版物から直接引用して見てみましょう。
種痘の普及とものみの塔協会の反対
18世紀の終わりにイギリスのジェンナーにより、種痘が開発されて以来、人類の歴史と同じ長い歴史を持ち、世界的に常に猛威をふるい続けてきた天然痘(疱瘡)は年を追って、撲滅に向かっていました。またその後、天然痘以外の伝染病、例えばジフテリア、麻疹等の予防接種も次々に開発されていきました。しかし、ものみの塔協会の指導部はこのような世界的な医学の進歩に頑なに背を向けていたのです。
予防接種は何も予防しないし、これからも何も予防することはないだろう。これは最も野蛮な行為である。‥‥われわれは今、終わりの日にいる。悪魔は徐々にその立場を失いつつあり、最後のあがきを行って、出来る限りの害を行い、その害悪が自分たちに帰せられるようにしている。‥‥アメリカ市民の権利を利用して、この悪魔の行為である予防接種を永遠に葬り去るべきである。(「黄金時代」1921年10月12日17頁)
この当時も、現在と同様、すべて、ものみの塔協会にあわないものは、悪魔に帰せられ、「終わりの日のしるし」にされたのでした。
「黄金時代」誌の「予防接種の詐欺」
1923年1月3日の「黄金時代」誌は、「予防接種の詐欺」と題する記事を載せ、その中で徹底的に予防接種の害を説き、それに伴う医療体制への批判に大きな紙面を費やしています。
予防接種の詐欺
予防接種の原理からだけでも、この行為は糾弾するに値する。腐った物質である膿を血液循環の中に注入することなど、どう贔屓目に見ても、吐き気を起こさせる嫌悪すべき行為である。予防接種に何らかの意味があるとすれば、それは健康人あるいは病人に感染物質を注入して、忌むべき悪質な病気を作ることである。‥‥(「黄金時代」1923年1月3日212頁)
予防接種が稀ならず、死、梅毒、癌、結核、発疹、癩病やその他の病気の原因となっていることは、もはや疑いの余地もなく示されている。(同)
知恵の優れていた子供たちはワクチン接種を受けた後まもなく、鈍くて愚かな子供になってしまった。彼らを健康状態に回復させるのは困難であった。(同)
大企業と医療界への批判
この予防接種攻撃は、ここでも、ものみの塔が繰り返し主張する「悪者」に帰されています。エホバの証人の世界観では、これは昔も現在も変わりませんが、この世には三つの大きな邪悪な力が働いていることになっています。それらは、「偽りの宗教(これはものみの塔以外の全ての宗教を指す)」、「この世の政府(これはサタンに支配されていると信じる)」、そして「抑圧的大企業」ですが、ここでは予防接種の悪は、この第三番目の邪悪な力に帰されています。
一般の人々は、血清や抗毒素、ワクチンなどの製造がどれだけ大きな産業であるかに気がついていないし、大企業が全体の[予防接種の]産業を支配していることを知らない。‥‥健康委員会が、天然痘、ジフテリア、チフスの流行を引き起こそうと努力しており、彼等は考えの至らない社会の人々に、その製造した汚物を接種することにより、黄金の刈り取りをしているのである。(「黄金時代」1923年1月3日214頁)
この商業や大企業に悪を帰する、ものみの塔の態度は、最近の「目ざめよ!」誌(「黄金時代」の誌名が変わったもの)1990年10月22日号の「血液の販売-もうけの大きい商売」の記事で、輸血の裏に企業利益が働いているという主張と共通したものです。その記事では、国際赤十字社が大々的な嘘と非倫理的方法で、血液を売って大儲けをしていると主張しています。この論じ方は、今も昔も変わらない、ものみの塔協会の論理のようです。
反対運動の拡大と「聖書的根拠」
その後の予防接種攻撃
その後も、ものみの塔協会の奇想天外な予防接種攻撃は続きました。
健康で正常な機能を果たしている体は、病気の兆候を示さない。そしてワクチンがそのような体に植え付けられると、それは他の毒物や排泄物と同様に体から除去される。しかし、その侵入の努力が余りにしつこいと、その毒物はついに血流に入り込み、血液はそれを無毒化出来なくなる。その時に予防接種が成り立つのである。(「黄金時代」1925年4月8日424頁)
考えのある人は種痘をうけるよりは疱瘡にかかったほうがましだと考える。なぜなら種痘は梅毒、癌、発疹、丹毒、腺病、結核はもとより癩病に至るまで、多くの忌むべき病気の種を植え付けるからだ。従ってワクチン接種の行為は犯罪であり、非道であり、妄想である。(「黄金時代」1929年5月1日502頁)
人間の血が侵害されることと、悪魔信仰の広がりとは何らかの関係があることは、非常にありえることである。‥‥‥ 今日の性関係のいい加減な系列は、人の血と動物の血とを分けておくようにという神の命令を、簡単に継続的に破っていることに源を発していることは、明らかに示されるのである。他の動物の血が静脈の中を駆けめぐっている状態では、人間は正常ではなく、自分自身を失い、自己統制を可能にする冷静さと均衡を欠くことになるのである。‥‥ (「黄金時代」1931年2月4日293頁)
ノア契約との結び付け
ここでも、医療上の治療を悪魔信仰、性関係の問題とこじつけていますが、これに似た議論は現在のエホバの証人が、臓器移植や輸血の問題でも使っています。
種痘は、洪水の後、神がノアと結んだ永遠に続く契約の直接の侵害である。(「黄金時代」1931年2月4日293頁)
ここでは、予防接種反対の「聖書的根拠」が上げられています。
全ての理性のある心は、神が反対しているのは血を食べることではなく、野獣の血を人間の血と接触させることなのである。‥‥予防接種は人の命を救ったことは一度たりともない。種痘は天然痘を防ぐことはできない。(「黄金時代」1931年2月4日294頁)
ワクチン接種は動物に由来する物質を直接人体の血流に注入することであり、エホバ神の法の直接の侵害である。(「黄金時代」1935年4月24日465頁)
この時代、予防接種に対する攻撃は、やはり血の教えに基づいていたようですが、これらの引用でも分かる通り、その教えは血を食べることに問題があるのではなく、動物の血が人体に入り、人間の血と混じることがその大きな理由でした。この予防接種禁止の教えは、現在の血の教えと全く同様に、これがノアとエホバが結んだ永遠の契約に違反するから、許されないというものでした。また、これも現在の血の教えと全く同様に、治療に伴う危険を誇大宣伝しています。確かに種痘による副作用があったことは否定できませんが、それにより、ものみの塔協会の言うような、全く無関係の病気が引き起こされたことはありません。
体が病気の組織の注射により健康になり、血流を腐敗させることで病気に対する免疫が得られるなどという、ひどい作り話を聞いたら、悪魔はどれだけ大笑いすることであろう。‥‥マリアとヨセフはヘロデ王から逃げることができたが、医師会の監視の目と広範に延びる触手から逃げることは困難であろう。‥‥医師会は一つの予防接種だけでは満足していない。そこにはある程度の儲けがかかっているのだ。健康な人間が、金を払って医者の助けを必要とするとは、彼等にとって何と素晴らしい発見であろうか!‥‥(「慰め」1939年5月31日3頁)(「慰め」は「黄金時代」と「目ざめよ!」の間に一時的に使用された雑誌名)
予防接種は、意図的に作った敗血症であり、それ以上でも、それ以下でもない。(「慰め」1939年5月31日5頁)
「慰め」誌による医師会批判
ここでもまた、ものみの塔協会は、飽くなき攻撃を医師会に向けて行っています。
1952年の方針転換
「読者からの質問」による事実上の解禁
しかし、1952年になって、ものみの塔誌は、「読者からの質問」の欄を使って、劇的な変心を行い、この反予防接種の立場を静かに、しかし手のひらを返すように180度ひるかえしたのでした。ものみの塔協会は、頻繁に教義の変更を、この「読者からの質問」の欄を使って発表するのが、伝統となっています。
予防接種は神の血を取り入れることを禁じる掟に違反することですか?-G.C.ノース・カロライナ
予防接種に関する事柄は、個人がそれに対して自分の決定を下すべきです。‥‥そして当協会はこれに関して訴訟に持ち込めるだけの資力はありませんし、その判決に責任を負うことはできないのです。
方針転換の理由と責任をめぐる記述
ここで注目すべきことは、この新しい教義の変更の言い訳として上げられている理由です。ものみの塔協会は、ここで明らかに予防接種禁止の教えにより、沢山の命が失われたことを、言外に認めています。それはその当時、エホバの証人とものみの塔協会に向けられた、数々の訴訟を見てもわかります。
後に、種痘の有効性は世界的な天然痘の絶滅をもって証明されましたが、その当時、天然痘はアメリカだけでも年間10万人近い患者がおり、死亡率は40%に登りました。その間エホバの証人の種痘拒否によって、何人のエホバの証人が天然痘で死に、またエホバの証人が免疫を受けていないために、社会全体が病気の蔓延でどれだけ苦しんだかは、想像に難くありませんが、その実数はつかめていません。(これに似た例は現代でも続いており、麻疹の予防接種を拒否する宗教団体の子供たちに源を発した麻疹の蔓延が知られています。)ものみの塔協会は、それ以上の「世」の圧力に抵抗するわけには行かなかったようです。この「新しい光」と呼ばれる教義の変更がここで打ち出された理由は、ものみの塔がこれ以上の犠牲者を出して、訴訟で係争する資力もなければ、判決に沿って賠償をする責任も負いたくなかったからでした。
新たに示された聖書解釈
この「ものみの塔」誌の記事を読むと、その時まであれだけ力を入れて説いていた「聖書的」な議論は、すっかり影を潜め、あるいは全くどうでもよいこと(資金をかけて責任をとることに比べれば)のように見えます。
この事柄を検討した結果、これは創世記9:4に書かれた、ノアの結んだ永遠の契約の違反でもなければ、レビ記17:10-14のこれに関係した神の命令に反することでもないように、われわれには思えます。少なくとも予防接種を受けることで、その人間が血を飲んだり食べたりした、あるいはそれを食物として取り入れた、あるいは輸血を受けたということになるとは、論理的にも聖書的にも、議論して証明することが出来ないことは確かです。予防接種は、創世記6:1-4に書かれている、み使いの「神の子」と人の娘との結婚とは何の関係もなく、何の類似性もないのです。また、この問題はレビ記18:23,24に書かれた人と動物との交接を禁じた問題と同じ分類に入れることも出来ません。これは性関係とは全く関係ないことです。(「ものみの塔」1952年12月15日764頁)
過去の教えに対する責任
ここまでの議論は、確かにその通りと思われます。しかし、それでは、ものみの塔協会があれだけ繰り返してきた教えを守って病気になったり、死んだりしたエホバの証人はどうなのでしょう。この記事では、そのことには一切触れてはいませんし、反省をうかがわせる言葉は一切書かれていません。しかも、その時点でも、まだ負け惜しみととれるような、次の言葉が続きます。
確かに予防接種がその結果として、それが予防するはずの病気に対して、血液にそれに抵抗する生命力を築き上げることになると、医科学は主張しています。しかし、これはもちろん、一人一人の個人が、エホバの彼に対する意志であると思えることに従って、自分で決定すべき問題です。(同)
そして、最後にそれまで、意味の無い教えを真理と信じてきたエホバの証人たちには、どのような言葉がおくられたでしょうか。
わたしたちは、単に上に書いてある情報を、要請に従って提示しましたが、読者がそれによって決定して行ったことに関しては、わたしたちは責任をとることはできません。(同)
つまり、協会は予防接種を受けることが、個人で決める問題か、それとも神の命令として絶対に守らなければならない事柄かを決めて、それをエホバの証人たちに「ものみの塔」誌を通して徹底させてはいますが、「その結果がどうなろうと責任はとりませんよ」、という態度です。これは、現在でも続く協会の態度であり、後の臓器移植と輸血の問題の所で、再び見られます。
予防接種解禁後の変化
反対運動の終結
このように、1923年から17年間にわたり、ものみの塔はその出版物の中で激しい口調で種痘を含む予防接種を攻撃し、エホバの証人は、ものみの塔協会が「新しい光」として1952年にこれを解禁するまで、種痘や予防接種を拒否し続けていました。この間「黄金時代」には予防接種を皮肉った漫画が掲載され、エホバの証人の子供は入学を拒否されることもありました。
1993年の「目ざめよ!」による肯定的評価
今日では、エホバの証人が予防接種を受けることは、何の抵抗感もありません。昔の「古い光」は忘却の彼方にあります。1993年の次の「目ざめよ!」誌では、予防接種について次のように書かれているのです。
予防接種を受けたほうがよいでしょうか
1950年代に、ポリオに効くワクチンが開発され、ほとんどの国では事実上この病気の脅威に終止符が打たれました。1980年には、天然痘は世界から撲滅されたと宣言されました。このことは「1オンスの予防は1ポンドの治療ほどの価値がある」というベンジャミン・フランクリンの言葉の正しさを支持しているようでした。今日、予防接種は多くの病気の抑制に全般的な効果を上げています。少し挙げるだけでも、破傷風、ポリオ、ジフテリア、百日咳などの例があります。‥‥
子供の予防接種が可能な世界のほとんどの場所では、定期予防接種のおかげで、対象とされた小児病の発病率が激減しました。(「目ざめよ!」1993年8月8日22頁)
輸血禁止の教えとの共通点
この予防接種に関するエホバの証人の歴史は、血の教えを理解し、今後の方向を推測する上で、鍵となる大きな情報を与えます。というのも、予防接種の禁止の教えには、今の輸血禁止の教えと共通する論理と聖書の裏付けが使われており、それが後に手のひらを返すように変更されたからです。
次の章では、この予防接種解禁とほぼ時を同じくして、厳密な教義に発展し、予防接種に代わるエホバの証人の最大の医学教義となった、輸血禁止の問題を取り上げます。
第三章:「血の教え」の成立の歴史
初期の歴史
ものみの塔宗教の創設者、テーズ・ラッセルは血に関して、現在のエホバの証人とはかなり違った見方をしていました。 「血の教えの聖書的根拠とその考察」の所で詳しく検討するように、「血の教え」は新訳聖書の使徒15章の解釈に大きく依存しています。ものみの塔の出版物の中で最初にこの部分の解釈が論じられ、血液のことが取り上げられたのは、1887年5月15日のものみの塔誌でした。その引用は「血の教えの聖書的根拠とその考察」の中の、第三章:使徒15章と「使徒の布告」の中で紹介しましたが、ここに再録しましょう。
この答は、四つの項目を除いてその律法を無視するものでした。そしてこれらの四つのうち最初の三つまでが、それまでユダヤ人であった人たちと、それまで異邦人であった人たちとの共通の交わりの基礎となるように述べられていることは明らかです。その三つとは、(1)偶像に犠牲として捧げられた肉から避けること、(2)ユダヤ人の方法によって殺されていない動物を食べることを避けること、(3)血を食べることを避けること、でした。ユダヤ人として育てられた人々にとってこれらの三項目を無視することは不可能に近いことだったでしょう。そして異邦人の改宗者がこれらを守らなければ、そのことは常に彼らの社会的な障壁となったことでしょう。ここに推奨されている事柄は、ユダヤ人から構成される(統治)「体」と、異なった教育と感情を持つ異邦人とが交わりを続けて行く上で必要だったのです。同じ考えは血の使用の禁止にもありました。ユダヤ人にとってはこれは禁じられたものであり、彼の契約によればそれは生命の象徴でした。それに与ることは、奪った生命に対する責任を負うことを意味するのでした。異邦人は律法の契約の元にいなかったために、このような禁令は異邦人には全く当てはまりませんでした。しかしこの事柄に関する限り、それはユダヤ人の考えに余りにも深く根付いていたために、異邦人がこの事柄を守ることは教会の平和にとって必要なことだったのです。(「ものみの塔」誌1887年5月15日、復刻版2158頁、英文よりの筆者訳)
そこで詳しく検討したように、ラッセルの使徒15章の解釈の仕方は、まさに現在の大部分のエホバの証人以外の聖書注解者の解釈の仕方と同じでした。そこには、現在の「血の教え」を支える、今のものみの塔独自の解釈の面影はありませんでした。
このラッセルの使徒15章の血の教えに対する見方は、1892年11月15日のものみの塔誌349-352頁(復刻版1473頁)でも繰り返されています。
彼[ヤコブ]は更に、偶像による汚れと(29節)、絞め殺されたものと血と-そのようなものを食べることはユダヤ人の兄弟たちへつまずきの石になるかもしれないので(コリント第一8:4-13参照)-、それと淫行とを避けることだけを手紙に書くことを提案した。
ここで述べられている事柄は、自分たちがつまずいたり、他のつまずきの石となることの予防に過ぎなかった。(「ものみの塔」誌1892年11月15日、復刻版1473頁、英文よりの筆者訳)
ここでも創始者ラッセルは、使徒15章の内容を、全人類を拘束する永遠の掟とは解釈せず、他の大部分のクリスチャンと同様に異邦人とユダヤ人のクリスチャンとの間の関係を保つための方策である、と解釈していました。
「黄金時代」、「慰め」の時代
前の章で述べたように、ものみの塔はこれら「黄金時代」、「慰め」の二つの出版物を使って、医学キャンペーンを繰り広げましたが、輸血に関しては、ほとんど問題にしていません。これは当時、輸血は行われてはいたものの、まだ一般に広く行き渡ってはいなかったこともあるでしょう。しかし、それらの少数の輸血が行われた例に関しても、ものみの塔は決してそれに否定的な見方を示しませんでした。
イギリスのロンドンに住む B.W.ティブル氏は、ロンドン病院の患者に輸血するために、様々な機会に45回にわたって、一パイントの血液を献血してきた。普通の料金は一回5ギニー、あるいは25ドルであるが、ティブル氏は彼の献血に対して、常に支払いを受けることを辞退してきた。(「黄金時代」1925年7月29日683頁)
ニューヨーク市では、主婦が下宿人の持ち物を移動している最中に、間違ってその人のレボルバーで自分の心臓を撃ってしまった。彼女は病院に担ぎこまれた。‥‥担当医の一人は、余りの緊急事態に、自分の血液を一パイント提供して輸血した。今日、この女性は元気で、人生の中で最も忙しかった23分間の間に起こったことを笑顔で語った。(「慰め」1940年12月25日19頁)
これらの記事で見るように、ものみの塔協会はその当時、輸血に否定的な見方はとっておらず、いずれの記事でも、献血を行って人を助けた、ティブル氏や、ニューヨークの病院の医師に対して、肯定的な見方をとっています。
また前の章でも触れましたが、「黄金時代」の血の教えは、血を食べたり取り入れたりすることが禁止されているのでなく、動物と人間の血が混じることが一番の問題と考えていました。これは次の引用であきらかです。
全ての理性のある心は、神が反対しているのは血を食べることではなく、野獣の血を人間の血と接触させることなのである。‥‥予防接種は人の命を救ったことは一度たりともない。種痘は天然痘を防ぐことはできない。(「黄金時代」1931年2月4日294頁)
もちろん、この聖書の解釈は予防接種を反対するには最も都合のよい解釈ですが、後に反対の対象が予防接種から輸血に代わると、この解釈では都合が悪くなります。聖書解釈が、ものみの塔協会の教義の作成と変更の過程で、それにあわせて変化させられていることがよくわかります。
1945年-1951年の血の教え
最初の、血を取り入れることに関する否定的な見方は、1945年の「ものみの塔」誌にあらわれます。ここでは、ノアの契約で、肉は食べてもよいが、血は食べてはならない、という部分を取り上げています。
神の掟は明らかに、血を取り入れることは必ずしも人の命を支えるために必要なことではなく、それは動物の肉を食物として取り入れるのと、同じ分類には入れられませんでした。この掟は、下等動物の血にあてはまり、人の血液には当てはまらない、と言うことはできません。もし下等動物の血がそれだけ貴重で、創造者から与えられた命を意味するのなら、当然高等な動物である人間の血がそれより貴重でないというわけはありません。‥‥この掟からすれば、血に飢えた戦士が、敵の強い男を殺した後、その殺された男の血を吸収することで、その男の強い性質を奪い取ることができると信じて、その血を飲むという野蛮な行為は、罪になるのです。‥‥(「ものみの塔」1945年7月1日200頁)
この記事では、しかし、百科事典に書かれた輸血の歴史を紹介した後、血を飲んだり食べたりすることは許されないという見解を繰り返していますが、はっきりと輸血という医療行為が許されないとは書いてありませんでした。輸血が許されないことは、全体の記事を読むとそう読み取れますが、はっきりとそのことは明言していないのです。これは、ものみの塔が、一つの教義の変更を打ち出すときに、よく「伏線」として、このような記事を出す、よく行われる習慣で、最近でもこのやり方は続いています。この輸血の禁止の伏線は、明確な禁止として打ち出された1951年のものみの塔の記事のさきがけとなったものです。
その間、輸血に関する否定的な見方は、刊行物の各所に散発的に見られます。
神の律法によれば、人間は他人の血液を取り入れるべきではない。‥‥神の掟に逆らう危険だけでなく、輸血は健康の害も伴うものである。(「目ざめよ!」1948年10月22日12頁)
輸血禁止の明文化
先に述べたように、本格的な輸血禁止の教義は、1951年7月1日の「ものみの塔」誌の「読者からの質問」の欄で発表されました。この記事では、この欄としては珍しく、詳細にその新たな教義の解説が行われています。先ず、この記事の出だしが興味ある内容を語っています。
最近のシカゴにおける、エホバの証人の輸血に対する立場に関する裁判所の判例は、一般の人々や、公共報道機関の、広範な議論を引き起こしました。多くの質問が寄せられました。以下に挙げる質問は、最も多く聞かれたもので、様々な場所から寄せられたものです。(「ものみの塔」1951年7月1日414頁)
前の予防接種の章でも見たように、ものみの塔の新しい真理は、裁判が関係した時に頻回に発表されました。これもその例外ではないでしょう。この記事で以下、注目して頂きたい点は、これが前の章で紹介した予防接種の解禁の一年半前に発表されているということです。つまり、この時点では、エホバの証人はまだ、予防接種は神の前に許されない行為と信じ切っていたのです。この記事の論理が、いかに予防接種禁止の論理を受け継いで発展しているかを見ることは興味あることでしょう。
輸血に反対する聖書的な根拠は何ですか。
エホバは大洪水の後、ノアと契約を結びましたが、そこには、「その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」(創世記9:4)という命令が含まれていました。
前の章で見た、予防接種解禁の1952年12月15日の「ものみの塔」の記事を思い出してみましょう。そこには、予防接種はノアの契約に違反することではない、という以前の立場を翻す「新しい光」が発表されているのです。ここで1951年から1952年にかけて、エホバが禁止しているものが、予防接種から輸血に取って代わったことが明らかになります。これに続いて、レビ記と使徒15章がとりあげられています。それに続く質問では、動物の血と人間の血が比較され、聖書には人間の血のことは書かれてはいないが、「もし表象となる動物の血が神聖であれば、表象された人間の血はそれよりどれだけだ神聖でしょう!」という議論をあげて、この禁則は人の血にも当てはまる、としています。
更に、次のような質問が設定され、それに答える形で、新しい教義の体系が説明されています。
クリスチャンは血に関するこれらの規制を強調するモーセの律法の元にないのですから、なぜそのような決まりに縛られるのですか?
血に関する規制は、モーセの律法の前から存在し、創世記9:4に書かれているように、その何世紀も前に与えられました。これらの規制は、キリストが苦しみの杭の上に釘付けされてモーセの律法が終わったあとでも、クリスチャンが守るように引き継がれました。‥‥
レビ記3:17には「脂肪も血もいっさい食べてはならない」とあります。ではなぜ血を避けて脂肪を食べるのですか。
‥‥脂肪に関する禁止はモーセの律法の一部です。血は律法以外の場所でも禁止されていますが、脂肪は禁止されていません。従って律法が成就して廃止された時、脂肪の禁止も、豚やウサギやウナギなどを食べることの禁止と同様に、廃止されたのです。
動物が正しく血抜きをされたとしても、ある程度の血は肉の中に残るわけですから、なぜエホバの証人は肉を食べることを拒否しないのですか。
‥‥エホバ神は血を食べてはならないという規則を与えた時、人は動物の肉を食べてもよいと言いました。その時点で、エホバは殺された動物の死体が出血され、血液が流し出されれば、必要は満たされたと教えました。わたしたちが血に関して守ろうとしているのはエホバの掟であって、わたしたちが彼の必要としている通りに動物の血液を流し出して、彼の要求を満たせば、それだけで充分ではないでしょうか。わたしたちはパリサイ人のように愚かになって細かな文句を言って、神の律法が必要としていることを超えた重荷を積み上げる必要はありません。
多くの人は輸血を受けることは血を食べることとは違うといいます。この見方は確かなものですか。
病院にいる患者は口からでも、鼻からでも、静脈からでも養われます(feed)。糖の溶液が静脈から与えられる時、それは経静脈栄養補給(feeding)と言います。ですから、病院の用語の中そのものに、静脈を通して、人の体の中に栄養を与える過程を養うこと(feeding)と認めています。従って病院で患者に輸血をする人は、その患者を静脈を通して血で養っているのです。‥‥
(「ものみの塔」1951年7月1日414頁)
ここに、その後エホバの証人が繰り返し使う、輸血、すなわち血によって「養われる(feed)」、従って食べることと同じ、という議論が最初に現れるのです。しかし、この後繰り返し使われる、この説明をよく読んでみると、少し医学や生理学の知識のある者であれば、この議論は聖書に無関係の、ただの feed という「言葉の遊び」によるこじつけでしかないことが分かります。
この1951年という年には、まだ血液の成分に関する議論はなされていませんでした。この時点では、血清であろうと、全血であろうと、少量であろうと大量であろうと、全ては避けなければならないことでした。しかし、これから見ていくように、この「血の教え」の歴史は、それ以降、例外につぐ例外の設定、あるいは規則の抜け穴作りの歴史となるのです。
血の教えの罰則
次にこの「血の教え」に対する罰則はどのように変遷してきたでしょうか。輸血をの禁止がはっきり明文化した1951年以降、数年間というものは、この禁則を破った者に対する、はっきりした排斥処分は行われませんでした。これは、1958年の次の「ものみの塔」誌の記事を見てみてもわかります。この「読者からの質問」の欄では、次のように述べられています。
エホバの証人の一人で、油塗られた残りの者級であると言う女性が、最近病院に行き、自発的に輸血を受けました。この女性は記念式でぶどう酒とパンの表象物にあずかることを許されるべきですか。
‥‥しかし、会衆は自発的に輸血を受けた者、あるいはそれを容認した者に対する排斥処分を支持したことはありませんでした。わたしたちは血の神聖さに関する神の律法を破った者に対する判断を、最高の審判者であるエホバに預けます。このような人々に対してできる唯一のことは、彼等を未熟な者とみなし、従ってある種の責任をとる能力がないとみなし、そのような者にはある種の奉仕の役割を与えないことです。人は輸血を自発的に受けたり、愛する者が輸血を受けることを容認したりしたことでは、排斥処分にならないのですから、あなたはこの姉妹が主の晩餐を祝うことを妨げる権利はありません。‥‥(「ものみの塔」1958年8月1日478頁)
しかし、この立場はその三年後の1961年に変更され、それ以後、自発的に輸血を受ける者は、排斥処分を受けることになりました。この教義の変更は、再び「読者からの質問」の欄で発表されました。
輸血によって血液を人間の体の中に取り入れることの重大性を考慮すると、この点で聖書の教えに違反した場合、献身してバプテスマを受けながら輸血を受けた者を、クリスチャン会衆から排斥させることになりますか。
霊感を受けた聖書の答はイエスです。
‥‥従って、輸血を受けた者は、隣人たちの血液に含まれる神の与えた魂で、自分を養っていることになります。これはクリスチャンに対する神の命令の違反です。この事の重大性を過小評価して、誰もが自分の良心によって決める選択事項であるという軽い取り扱いですませるべきではありません。‥‥来るべき事柄の影となっていたモーセの律法によれば、輸血を受けた者は、破門あるいは排斥によって神の民から断たれなければなりません。もし輸血を受けたことが、その献身してバプテスマを受けたクリスチャンの最初の間違いであり、彼の未熟さとクリスチャンの安定性の欠如によるのであって、彼がその行為の間違いを認め、悲しんでそのことを悔い改め、神の赦しと、神の地上の会衆の赦しを乞うのであれば、その時は彼に憐れみが差し伸べられるべきで、彼を排斥する必要はないでしょう。‥‥しかし、もし彼が必要なクリスチャンの基準に外れていることを認めることを拒否し、この事をクリスチャン会衆で問題として取り上げ、他の人に影響を与えて彼への支持を得ようとするなら、あるいは、将来において、輸血を受け続けたり、この医療行為を他人に施すのに使われる献血を行い続けるのなら、このことは、彼が本当に悔い改めず、意図的に神の決まりに反対することを示すものです。そのような者は、反抗的反対者、クリスチャン会衆の会員への不忠実な者の例として、排斥によって会衆から断たれなければなりません。‥‥
(「ものみの塔」1961年1月15日63頁)
この記事以降、意図的に輸血を受けたエホバの証人は、排斥処分にされることになり、その処分は現在でも継続しています。この同じ年には次のような、脅迫的な記事さえ、「ものみの塔」誌に掲載されました。
聖書に反する方法で命を救おうとする努力は、永続する良い結果を生み出すことは決してありません。命を与えてくれたかたの法を破って、命を救えるなどと考えるのは、なんと馬鹿げたことでしょう。確かにその場では一見ためになるような結果が出るように見えますが、結局はそのような間違った道をとった結果として、病気になったり、死産になったりするのです。たとえ、その患者や子供に目に見える身体的な害がないとしても、神の律法に違反することは、神の新たな体制の中で永遠の命を得る機会を、ひどく損なうことになるのです。(「ものみの塔」1961年9月15日565頁)
ここには、排斥処分による警告と相まって、血の掟を守らないものへの、厳しい精神的な恐怖心の植え付けが意図されているのがわかります。
次に、このようにして確立した、エホバの証人の「血の教え」はその後どのように発展して、変遷していったのでしょうか。これを次の章で見てみましょう。
第四章:「血の教え」の発展
血の教えの「細則」の発展
前の章に述べたように、輸血禁止の新たに明文化された教義が、1951年の「ものみの塔」誌に発表された当時、問題にされたのは、単純な輸血(当時はまだ全血輸血が主流でした)だけでした。しかし、その後、この教義には様々な「細則」がつけ加えられました。
食肉、その他の食物の血について
先ず、1961年の「ものみの塔」誌では、肉屋で売られている肉に含まれる血液を問題にしています。
もし、屠殺された動物を瀉血することがあなたの地方で一般に行われていないなら、あるいはあなたの住む地域での普通の処理の仕方がわからなかったら、肉から血が正しく抜かれているかどうかを確かめる一番よい方法は個人的に聞いてみることです。‥‥もしクリスチャンがその肉は正しく処理されていることを確信したら、それを自由に使って構いません。しかし、もし肉を売っている人がそのことを知らなかったら、「誰がこれについての情報を知っていますか。これは私の宗教上の理由で大事なのです」と質問しなさい。もし何らかの理由で彼が真実を知らされていないと感じたら、いつでも他の所へ行って買うことが出来ますし、もし必要なら、生きた動物を買って自分で屠殺するように手配もできます。
(「ものみの塔」1961年11月1日669頁)
ここで、ものみの塔協会は正統派ユダヤ人も顔負けの、食肉に関する決まりを設定しています。この「ものみの塔」の、肉屋に問い合わせなさいという教えは、コリント第一10章25節の次のパウロの言葉とは、全く反対の教えです。
何でも肉市場で売っているものは、あなた方の良心のために、何も尋ねないで今後も食べなさい。「地とそれに満ちるものとはエホバのもの」だからです。不信者のだれかがあなた方を招き、あなた方が行きたいと思った場合、自分の良心のために、何も尋ねることなく、何でも自分の前に出される物を食べなさい。(コリント第一10:25-27-新世界訳)
ものみの塔も、この点は無視できませんでした。同じ号の「ものみの塔」誌の次の「読者からの質問」の欄でこの点は、苦しい説明がなされています。それによると、コリント第一の10章で問題にしているのは、偶像に捧げられた肉が肉市場で売られているものについて、議論されている、従って、クリスチャンはその肉が偶像の神殿から来たかどうかを尋ねないで食べてもよいと、パウロは言っているのである、というのがものみの塔の説明です。しかしそれは、聖書に書いていないことを無理に読みとっているのではないでしょうか。コリント第一には「何でも肉市場に売っているものは」と書いてあります。そこには当然、正しい血を抜く手続きを受けていない肉が売られていました。そもそも、偶像の神殿に供えられる肉は、ユダヤ人の神殿に供える肉とは違った処理法を受けています。パウロの言うように「何も尋ねないで」食べた場合、正しく血抜きをしていない肉をたべることになるのは、必至でしょう。
また、不信者の家で何でも出されたものを何も尋ねることなく食べれば、正しく血抜きしていない肉が入っている可能性は充分ありますが、パウロはそれでも構わないと言っているのです。ものみの塔にとって、このような明白な聖書の記述も、自分たちの教えと矛盾すると、決して素直に読みとることは出来ません。彼等にとっては、血の教えが絶対的な教えになっているが故に、この部分を素直に読んでも「こんな事はあり得ない」と結論し、無理に「血の教え」にあうようにねじ曲げて解釈しなければなりません。これは、ものみの塔の聖書解釈の典型的な型を示すよい例でしょう。詳しくは第二部を参照して下さい。
更に、ものみの塔は様々な商品に血液やその成分が含まれているかを、細かく調べることをエホバの証人に要請しています。
他の商品についても、似たような手続きをとるのがよいでしょう。もしあなたがある商品に血液あるいは血液の成分が含まれると信じる理由がある場合には、それを売っている人に尋ねなさい。もしその人が知らなかったら、製造元に手紙を書きなさい。表示に血液成分が使われているかが示されていることもありますが、いつもそうであるとは限りません。(「ものみの塔」1961年11月1日669頁)
また同じ読者からの質問では、魚や昆虫に関しても、食べる時は血を出す必要があると教えています。もしこれらの動物が小さくて注ぎ出すだけの血が無い場合には、無理に絞り出す必要はないが、これらの動物を切って血が見える場合には、除いてから食べなければならないと教えています。
ペットへの輸血、動物の飼料、肥料に含まれる血について
1964年になると、ものみの塔協会は、「血の教え」は単に血を体に取り入れることを禁止しているだけでなく、更に、何らかの目的で血を利用することも禁じていると解釈を発展させ、再び「読者からの質問」の欄で、動物の血液で作った肥料を使うこと、血液が含まれる動物の餌を使用すること、そしてペットに輸血をすることが禁止されました。
クリスチャンが獣医に対し、ペットに輸血することを許すことは、聖書に違反することでしょうか。動物の餌はどうでしょうか。もし血液が入っていると信じる理由がある時に、それを使用することはかまわないでしょうか。また、血の含まれる肥料を使うことは許されますか。
‥‥クリスチャンが獣医に対し、ペットに輸血することを許すことは、聖書に違反することでしょうか。もちろん確実に、そのようなことをすることは聖書に違反することです。そして血液を輸血のために使うことは、それが動物であっても、不適当です。‥‥クリスチャンの親は、ペットは子供のものであり、バプテスマを受けていない子供が、自分勝手に獣医に輸血をすることを許すかも知れない、などと決して言い訳をしてはなりません。いいえ。バプテスマを受けた親が責任があるのです。なぜなら、その親がその子供に対する権威を持ち、従ってそのペットにも権威を持ち、すべての事をコントロールしなければなりません。これは親の神の前での義務です。
それでは動物の餌はどうでしょう。もし血液が入っていると信じる理由がある時に、それを使用することはかまわないでしょうか。クリスチャンに関する限り、この答は、すでに述べた理由に基づいて、否です。従って、もしクリスチャンがドッグフードやその他の動物の餌の容器に貼ってある表示に、血液成分が含まれることを見つけたら、その人が管理する動物に対して、その餌を与えることは良心的にできないでしょう。動物が血を食べることは許されるはずだ、という結論は出せません。なぜならこれは一つの動物が他の動物を殺して、自分でその殺した動物の血を食べていることではないのです。いいえ、ペットやその他の彼が管理する動物に血を食べさせるという、クリスチャン自身の直接の行為が問題なのです。‥‥
それでは、血の含まれる肥料についてはどうでしょう。神の血に関する掟に敬意を示す人はこれを使用しません。確かに、モーセの律法によれば、体から取り出された血液は地面に注ぎ出して、塵で覆わなければなりません(レビ記17:13,14)。しかし、その目的は、血が捨てられる時に何の有用な目的にも使われないということです。それが肥料として役に立つからという気持ちをもって、地面に撒かれたのではありません。従ってクリスチャンの農民は今日だれも、土壌を肥やすために血液を撒くことはできませんし、また売られている肥料で血液を含んだものを使うこともしません。そのような血液の使用の仕方は、神が自分の使用のために確保してあるものを、商業化することになるでしょう。これは神の言葉に対する違反です。‥‥
(「ものみの塔」1964年2月15日128頁)
この新たな教義は、ペットへの輸血、血の入った餌を与えること、血の入った肥料を使うことを、「聖書に違反する」、あるいは「神の言葉に違反する」行為として規定しています。聖書にひたすら忠実に生きようと希望しているエホバの証人にとって、「聖書に違反する行為」とする、ものみの塔協会の規定が、どれだけ強い拘束力を持つかは想像に難くありません。どのエホバの証人も、どんなことがあっても、聖書に違反することだけはしたくないからです。
しかし、聖書は野生の動物には血の入った肉を食べさせることを許しています。
野にある野獣に裂かれた肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えるべきである。(出エジプト22:31 -新世界訳)
この犬のようにペットには、野生で元々肉食であり、エホバが血を食べるように創造した動物も含まれますが、そのことは考慮はされていません。(しかし、議論の観点を変えれば、同じように強い調子で、これらの動物に血を食べさせることを正当化する議論も展開できます。)
これらの規定を破ってどれだけのエホバの証人が、審理委員会にかけられたり、なんらかの処罰を受けたかは分かりませんが、この規定は明らかに単なる忠告の域を超えた、強い力を持つものでした。
この血の入った肥料の禁制は、その後、1981年10月15日の「ものみの塔」誌で、少し調子が和らいではいますが、繰り返し問題にされています。
血液検査について
体から取り出された血液が、有用な目的に使われるのが、聖書に違反する行為であるのなら、もちろん献血は許されませんが、それでは、自分の血液を採血して病気の診断のための検査に提出することはどうなのでしょうか。
血液検査を受けることは間違っていますか。聖書の知識に基づいて、全部ではなくとも、大部分のエホバの証人はそのような検査を受けることに反対しません。体から取り出された少量の血液は、食べたり他の人に注入されるのではなく、ただ廃棄される前に検査されたり、テストを受けるだけだからです。(申命15:23)(「ものみの塔」1978年6月15日30頁)
自分の血液を取り出して、重要な病気の診断に活用し、自分の健康に関する重要な情報を得ることは、血液が「有用な目的に使われる」ことにならないでしょうか。肥料に使われることは「有用な目的に使われる」ので許されないのであれば、どうして血液検査に使うことが同じ様に「聖書に違反する行為」ではないのでしょうか。それとも少量であるからよいのでしょうか。使徒の15章には血とならんで淫行を避けるように書いてあります。少量の血液が許されるのなら、少量の淫行も許されるのでしょうか。このような一貫性のない教えは、聖書の教えでしょうか、それとも人がその時その時のアイディアで作った、人間の教えでしょうか。
エホバの証人以外の人間への血の使用
エホバの証人が、血液を商売で扱ったり、エホバの証人の医師が、エホバの証人以外の患者に輸血する行為は許されるのでしょうか。1951年の明文化された規則の設定以来、エホバの証人の実生活の上で、様々の予期しない状況が生まれ、それに対して、ものみの塔協会は、次々と肯定、否定の答を与えることにより、次々と「判例」を作り、それがまた次の問題を生むことになりました。次の1964年の「ものみの塔」誌の記事では、エホバの証人が血を含んだ商品を売ることは、「良心の問題」すなわち容認されることとされました。
‥‥ですから、クリスチャンが血の入った品、例えば血入りのソーセージのような品物を、それをよろこんでお金を出して買いたいという世の人に対して売ることによって処分することは、良心の問題です。(「ものみの塔」1964年11月15日681頁)
この問題はその後、クリスチャン(エホバの証人)の良心が許さないことを、クリスチャン以外の人(エホバの証人以外の人)に行うことが許されるかどうかの教えと関係して、議論が展開されました。次の「王国宣教」の記事では、クリスチャン以外の人に血液を食べさせることと、たばこを売ることとを、比較しています。
ある人は、たばこを世の人に売ることに関して、申命記14:21の原則があてはまるかどうか、という問い合わせをしてきました。神は、血を注ぎだしていない肉が異邦人に売られて、食物にされることを認めました。そうすることは、必ず身体的危害が加わるわけではなく、そのような異邦人はすでに霊的にエホバの前に汚れていました。そのような肉を食べることによって、かれらには身体的にも霊的にも、何の違いも起こりませんでした。これに対して、たばこに関しては、これが食物でないこと、人の体にとって何の役にもたたないこと、そして絶対的に有害であることを、われわれは知っています。そうであるなら、どうして、われわれはこれを無視して、自分の個人的な利益を隣人への愛より優先させることができるでしょうか。(「王国宣教」1974年2月6頁)
ここでは、たばこは害があるから、エホバの証人はこれを、世の人に売ってはならない、しかし血に関しては、たとえば血の入った商品は、それが害になるものではないから、これを売ることは構わない、という論理になります。しかしこの点でも、ものみの塔協会は揺れ動いています。この論理からいくと、身体的に害がなければ、エホバの証人の医師は、エホバの証人以外の患者に輸血しても構わないという、当然の論理の帰結になります。そこで、更に次ぎのような記事を出して、ものみの塔協会はこれを調整しています。
就職は、クリスチャンの良心を働かせる必要のある多くの問題を提起する領域です。ある種の仕事、たとえば偶像を作ったり、賭博の会社に勤めたり、偽の宗教団体の職員になったりすることは、明らかに聖書に反することです。クリスチャンはこれらを避けます。しかし、すべての仕事に関する事柄が、このように明確であるとは限りません。ある種の仕事は、いわば「灰色の領域」に入るでしょう。‥‥例えば血液に関係した仕事があります。‥‥一人のコロラド州のエホバの証人は、ある病院の主任検査技師として、体液や組織の様々な種類のテストを行っていました。彼がテストするはずの沢山の検査項目の中には、血液が含まれていました。ある時は単に、患者の血液を使って糖やコレステロールを測定するだけでした。しかし、ある時は輸血の準備のために血液をクロスマッチすることでした。彼はこれをしてよいでしょうか。このクリスチャンは、この事柄に関して慎重に考慮しました。クリスチャンが、全ての仕事が神の律法を破る目的に集中している、血液銀行だけに勤めることがよくないことはわかるでしょう。しかし、彼の状況はこれとは異なります。彼は多くの種類の検査をしていたのです。また、もしその人が決定に責任のある医師であるなら、クリスチャンの店の所有者が偶像やたばこを注文したり置いたりすることができないのと同じように、輸血を指示することもできないでしょう。しかし、この技師は、自分と血液の関係はただ、検査を行っているだけである、ということに気付きました。それはちょうど、看護婦が血液を採血したかも知れませんし、配達人はそれを検査室に届けたかも知れませんし、他の誰かは、医師の指示に基づいて輸血を施したり、薬を与えたかも知れないのと同じことでした。彼はそこで申命記14:21の原則を思い出しました。その本文によると、自然に死んだ動物の死体は、血を注ぎだしていない動物の肉に関して、律法の規制の下にいない外国人に対しては、売って処分することができました。そこでこの技師の良心はその時、血に関する神の律法に構わない患者に対する輸血のための検査を含めた、血液検査を行うことを許したのです。
(「ものみの塔」1975年4月1日215頁)
仕事に関して考慮すべき要素
クリスチャンがある仕事について決定を下さなければならないとき、まず考慮すべきなのは、自分が実際に何を行うことになるかということです。次の二つの点を考慮できるでしょう。その特定の仕事は聖書の中で非とされているか‥‥ 血液銀行や、専ら戦争用の武器を製造する工場の守衛や受付でさえ、神の言葉に反する仕事と直接的に結び付けられています。‥‥店を所有しているクリスチャンは、偶像や血の入ったソーセージを置いたり販売したりしません。そのような人は、他の幾千点もの商品と共にたばこや血入りのプリンなどを販売するスーパーマーケットの従業員と同じ立場にはありません。(「ものみの塔」1982年7月15日26頁)
この二つの、より最近のものみの塔の記事を見ると、幾つかのことがわかります。これらの記事では、「クリスチャンの良心」という言葉が繰り返し使われ、多くの「灰色の領域」に関して、「良心の問題」として自分で決定することを奨励しているように見えますが、よく読んでみると、多くの事柄が、「灰色」ではなく、はっきり「黒」と指摘されています。たとえば、1964年の教えと異なり、エホバの証人の商店主は自分の扱う商品に、偶像や血の入ったものがないように注意しなければなりませんが、同じエホバの証人でも従業員は、他の沢山の商品の一部として、血の入った商品を扱うのなら構いません。またエホバの証人の検査技師や看護婦は輸血をする手助けをして構いませんが(良心の問題)、医師は、商店主の例と同じように、自分の責任でエホバの証人以外の患者に対してでも、輸血を決定して指示することは許されないとされています。
ヒルの使用について
この「血の掟」は更に、奇想天外なアイディアにまで発展します。1982年6月の「ものみの塔」誌では、吸血動物であるヒルを医学治療の目的に使うことが許されるか、を論じ、「聖書に基づいて」これは許されないことと教えられています。その奇抜な議論をこの「読者からの質問」で見てみましょう。
クリスチャンが医学的な治療において、ヒルをつけて血液を吸収させることを許すことは間違っていますか。
血液を医学の目的で採血したり、捨てたりすることを許可することは、神の言葉に反することではないでしょう。しかしこれをヒルを使って行うことは、聖書が言っていることに反します。確かに、今日では一般には使われません。しかし特にヨーロッパでは、この使用に関する疑問は生じます。聖書が血に関して何と言っているかを見ることは、このような治療をどう評価するかに役立ちます。(「ものみの塔」1982年6月15日31頁)
これに続いて、現代の医療でヒルが使われる状況を説明しています。これはこの「ものみの塔」の記事にも紹介されていますが、特に形成外科の小さな末端組織、例えば耳たぶとか指の先とかをつなげる手術にヒルが毛細血管の還流を維持するのに活躍しており、現在でも最も有効な治療の一つです。これに続いて、他の記事と同じく、ノアの契約とモーセの律法が繰り返されています。それに続いてこの記事はこう言っています。
しかし、確かにヒルは自然の状態では寄生的に血を食べて生きていますが、クリスチャンがヒルに血を吸わせることを許すことは適切ではありません。(箴言30:15)たとえそれが医学的理由で必要とされて、ヒルは使用後処分されるのであっても、ヒルを使うことは、これらの生き物に意図的に血液を食べさせることになります。それは、血が神聖であり、生命を象徴するから、体から取り出されたら処分されなければならないという、聖書の指示に反することになるのです。(同)
興味あることは、この同じ記事の中で、再び血液を検査室に提出して血液検査を受けることは、「いったんテストが終われば血液は捨て去られるから」、「クリスチャンは良心的にこれを行うことができる」として、1978年の「ものみの塔」誌の立場を繰り返していることです。しかし、少し考えてみれば、ヒルも目的が済めばすぐにその血液と一緒に処分されるわけで、その処分前に「一時的」に目的にあったことに使われるわけです。血液検査もその結果によって、血を与えた人は莫大な利益を検査結果の形で得て、その後で血液が処分されるわけです。そこにどれだけ本質的な違いがあるのでしょう。この違いを作ったものみの塔の本当の理由(あるいは「本音」)は、血液検査が余りに日常的に広く行われているから、これを禁じることは、エホバの証人に更に大きな負担をかけるが、ヒルの使用は比較的稀であるので、これを禁じても大きな問題は起こらないという配慮があったのではないでしょうか。これが、本当に聖書の教えなのか、それとも人間が世間の雲行きを見計らって作った、人間の教えなのかを、読者の方はよく考えてみて下さい。
自己血輸血について
1978年には、その頃普及しだし、輸血に伴う多くの危険を回避できる自己血輸血(あるいは自家輸血)が問題にされました。もし、輸血がものみの塔の主張するように、感染症を主とする危険を伴うものであるのなら、この新たな手法は歓迎されても良かったようですが、実際は、ものみの塔協会はこの比較的安全な輸血法も、真っ向から否定しました。
医師は、手術中に万が一輸血が必要になったときに使えるように、手術の前に患者が自分の血液を採血して貯蔵しておくことができると言いました。クリスチャンはこのような自分の血液の使い方をどのように見るべきでしょうか。
彼[クリスチャン]は、古代イスラエル人が、体から除かれた血は、それが神のものであり、地上の生き物の命を支える物ではないことを示すため、「地面に水のように注がなければならない」と教えられたこと、を指摘できます。(申命記12:24)そして彼は、クリスチャンが「血から避けていなさい」という、直接的な命令を指摘できます。この観点からすれば、どうして彼は自分の血液を血液銀行に集めておいて、後に自分自身や別の人に輸血できるでしょうか。
しかし、これ以後、ものみの塔協会は、血の教えに関する限り、次々と例外と抜け道を作り、徐々にエホバの証人が、輸血を拒否しながらも現代医学の最大限の恩恵を受けられるように、規則を変えてきました。次にその歴史を見てみましょう。
例外と抜け道作りの歴史
先に述べたように、1951年に輸血の禁止が明文化した後の歴史は、徐々に、しかし次々と、細かな規則を作り上げる一方、規則に例外と抜け道を作る歴史となっています。これは医療技術の進歩により、様々の血液成分を別々に使用できるようになったこと、そして、血液を使用する、様々な治療法や治療機器が進歩してきたことが影響しています。そしてそのような、細かな例外は、更に複雑になり、ほとんど一般のエホバの証人が理解できないような、現在の血の教えに発展しました。
血清の解禁
この最初の例外作りは、一般的な輸血を禁止した1951年から7年しかたたない1958年に始まります。その年、9月の「ものみの塔」誌には、次のような「読者からの質問」が掲載され、ここでは血清の使用が先ず「各人で判断すること」として解禁されました。
ジフテリア抗毒素やガンマ・グロブリンの血液分画のような血清を、抗体によって病気に対する抵抗力をつける目的で、血流の中に注入することは、輸血によって血液や血漿を取り入れたり、血を飲んだりするのと同じと考えるべきですか。
いいえ、わたしたちは、確かに過去においてそのように取り扱いましたが、これらの二つのことを同じ範疇に入れる必要はないようです。聖書に血の禁制が述べられているのは、それを食物として取り入れることに関係している時で、従って禁止されているのは栄養物としてなのです。‥‥ 血液の中に、抗体を血清の形で注入したり、血液の一部を使ってそのような抗体を作ることは、口からでも輸血によってでも、血液を体の生命力を築くために栄養として取り入れることとは、同じではありません。神は人が自分の血液を予防接種や血清や血液の分画で汚すことは意図されませんでしたが、そうすることが、血を食物として使用する神のはっきりと述べられた禁止の中には含まれてはいないようです。したがって、そのようなタイプの医療をうけるかどうかは、各人の判断すべきことです。(「ものみの塔」1958年9月15日575頁)
ここで見るように、ものみの塔協会は少しずつ抜け道を作る段階で、「栄養として」とか「生命力を築くため」という解釈を輸血禁止にあてはめ、従ってそれ以外の使用を許していこうという姿勢が見えます。この抜け道は、ものみの塔協会にとってはどうしても必要なものでした。というのも、1953年に予防接種が「良心の問題」とされて解禁されたことにより、血清成分を多く使っている予防接種と、血の教えとの関係を調整する必要があったからです。この二つの一方を否定し、他方を肯定するには、それなりの聖書的な「裏付け」が必要でした。ここに輸血禁止の理由の強調点が、「栄養として」とか「生命力を築くため」という側面に変わったのです。
しかし、ここにはものみの塔協会が指摘しない皮肉な現実があります。現代の輸血は、大部分手術や外傷の急性の失血を一時的に補正するために使われ、昔のような栄養補給や「元気づけ」の目的で使われることは稀です。一方、免疫グロブリンの注入はまさしく体に抵抗力をつけるためであり、またものみの塔協会が、その後の「抜け道作り」で受けつけてよいとされた血清アルブミンは、今でも低蛋白症の「栄養付け」のために使われているのです。従って、ものみの塔協会はすでにこの時点で、重大な自己撞着に陥っていたのです。この輸血が「栄養として」行われる治療行為かどうかは、後で更に医学的な考察を加えます。
1974年6月1日のものみの塔」誌は、血清療法の進歩を紹介した後、この血清療法が「良心の問題」であることを、再確認しています。
最初に述べたように、聖書が血について述べていることに充分な敬意を払うために、わたしたちは血のいかなる使用も、自然に存在する動物や人間の体の外では勧めません。わたしたちは血を輸血に使ったり、その一部を同じ様な目的で使うことは、聖書の「血を避けなさい」(使徒15:20)という命令に明らかに反すると信じます。それではわずかの血液成分を含み、感染に対する防御力を助けるために使われ、命を支えるという血が普通に行う機能をするためには使われていない、血清はどうでしょうか。わたしたちはこれについては、それぞれのクリスチャンの良心が決めることだと信じます。ある人はそのように血清を受けつけることは、命の神聖さと命の源である神への不敬にはならないし、血を体を養うために使うことに関する、神の明らかにされた意志を侮辱するものでもないと考えます。一方、別の人の良心は、そのような血清は全て拒否するかもしれません。それぞれの人は、自分の良心の決定の理由に関して、自分の審判人である神に答えられなければなりません。(「ものみの塔」1974年6月1日351頁)
この記事のもう一つの重要な点は、ここで初めてRh不適合による新生児溶血性疾患の予防のための血清注射が、やはり「良心の問題」として解禁されたことでしょう。
体外循環装置の使用の解禁
1963年9月1日の「ものみの塔」誌は、この雑誌には珍しく、教義に直接関係のない医学界のニュースを大々的に取り上げました。それはニューヨークのある病院で、初めて人工心肺を使った無輸血手術が成功した、というものでした。この例では、人工心肺を最初に満たすのに使われる血液銀行からの血液の代わりに、ブドウ糖液を使ったことでした。なぜ、ものみの塔協会がこの一つのニュースを大々的に取り上げたかは、想像に難くないでしょう。これが、エホバの証人が本格的な心臓手術を受けられるきっかけとなったのでした。しかし、それでは大量の自分の血液が体外の人工心肺の機械の中に出て行って、再び自分の体に戻って来るのは、自分の血液を輸血することと本質的には同じことである、という問題が出てきました。これは結局次のような例外を設けることで、解決されました。ここでもまた「新しい光」、あるいは新しい聖書の解釈が、世の動きに翻弄されるようにして作られた例が見られるのです。
それでは、人工心肺や透析(人工腎臓)機のような装置の場合はどうでしょう。クリスチャンはこれらを使って構いませんか。
クリスチャンのエホバの証人の中には、しっかりした良心に基づいて、そのような装置が、血液以外の液体、例えば乳糖リンゲル液などで最初に満たされていることを条件として、それらを使うことを許した人たちがいます。このような装置が働いているとき、患者の血液は血管から管を通して機械(その中で血液はポンプされ、酸素を与えられ、あるいは濾過される)の中を通り、再びその人の循環系に戻されます。機械は一時的に、通常患者の臓器で行われている機能を代行しているだけです。あるクリスチャンは、血液が継続的に流れていれば、その体外の循環は自分の循環系の延長とみなすことができると、良心をもって考えました。これらの人々は、これは体の中に埋め込まれて、血管の閉鎖した部分を迂回させるための管と同じことだと考えました。もちろん、それぞれのクリスチャンはこのような装置に何が関係しているのかを考慮すべきです。その人は、この血液が明らかに体を出たものであるから処分されなければならないと考えることも出来ますし、あるいは、本質的にはまだ自分の循環の一部であるとも考えられます。その上で、神の前に正しい良心を保つことができる自分の決定をすることができます。(ものみの塔」1978年6月15日30頁)
ここに、エホバの証人は晴れて、ものみの塔協会からのひんしゅくを買うことなく、排斥処分を恐れることもなく、心臓手術や人工透析を受けられるようになりました。しかし、この同じ記事には、前にも触れたように、自分の血液を保存して置いて、手術時に輸血する自己血輸血は許されないことが確認されています。この時点において、ものみの塔の判断の重要な基準に、体外に出た血液が循環系の一部として「流れ続ける」ことが強調されるようになり、その後の例外作りの重大な基準となりました。すなわち、その後発表された、許される血液治療は大部分、この「自分の体の循環の一部と見なせる」ような多くの工夫が凝らされています。この点は、第三部の医学的考察の部分でも、紹介します。
血友病治療の凝固因子の解禁
この同じ記事では、更に血清療法が良心の問題であることが繰り返し述べられていますが、ここで初めて血友病患者に対する血液凝固因子の使用がやはり「良心の問題」と変更されました。そのほんの三年前の「目ざめよ」誌では、「もちろん、真のクリスチャンは‥‥この危険な可能性のある治療法を使いません」と述べたばかりでした。
血液から取られたある種の凝固「因子」が、止めようのない出血を引き起こす血友病の治療に、現在では広く使われています。‥‥もちろん、真のクリスチャンは、聖書の「血を避けなさい」という命令を守ってこの危険な可能性のある治療法を使いません。(「目ざめよ」1975年2月22日30頁)
ここにまた新たな抜け道が作られ、これにより、エホバの証人で血友病にかかっている患者にとっては、画期的な進歩がもたらされたのです。ほんの三年前までは聖書の命令に反することと教えられていた治療法が、今では「個人の良心の問題」になったのですから。
受け入れられる治療と受け入れられない治療 - JAMAを通しての発表
血の教えに対し本格的に、また体系的にこの例外と抜け道を公表したのは1982年6月22日の「目ざめよ」誌でした。ものみの塔協会は、その前の年の1981年、複雑化するものみの塔協会の「血の教え」を医学界に整理した形で伝えるために、アメリカ医師会雑誌(JAMA-Journal of American Medical Association)に「エホバの証人 外科的/倫理的挑戦」という記事を投稿し、それが受領されて、特別記事の形で、1981年11月27日号2471頁に掲載されました。この記事は、ものみの塔協会世界本部の医療部門の主任であったラウエル・ディクソン医師と、研究部門のスモリー氏の共著の形で書かれており、翌年の「目ざめよ」誌に全文が転載されました。この記事は、それ以後、エホバの証人が血に関する治療方針の決定や、医療関係者がどのようにエホバの証人を治療すべきかの指針として、しばしば引用される重要な文書となったのです。
次にこの歴史的な記事に何が書いてあるかを、系統的に要約してみましょう。先ずこの記事を読んで、すぐに気付くことは、筆者がエホバの証人でありながら、あたかも客観的にこの宗教を第三者の目から捉えて、その「筋にかなった」教えをいかにも客観性を保ちながら、医療界に紹介していることです。もちろん、JAMAの科学的、客観的記述を重視する編集姿勢に対応しなければ、記事は採用されないわけで、その点を充分に考慮しての書き方と思われます。
- エホバの証人の数が増えるにつれて、医学界もそれに対応した輸血なしの治療を行うようになってきた。
- エホバの証人は全血(whole blood)、赤血球濃厚液(packed RBCs)、血漿(plasma)、白血球(WBC)、血小板(platelet)の輸血は聖書が禁じていると見るが、アルブミン、免疫グロブリン、血友病血液凝固因子は、個人の判断にまかされて決定される。
- 自己血輸血は受けつけられない。血液の貯蔵を伴う手術中の血液の回収(intraoperative collection 出血採集)や希釈式自己血輸血(hemodilution 血液希釈)も受けつけられない。
- 透析機械や人工心肺は、機械が使用前に血液で満たされておらず(無血充填)、体外循環が中断しない限り受けつけられる。手術中の血液回収も、体外循環が中断しない限り受けつけられる。
- エホバの証人は聖書が臓器移植に直接は何も述べていない、と思う。従って角膜、腎臓その他の組織の移植は個人のエホバの証人の決断にまかされる。
- エホバの証人はそれ以外の輸血を避けるための治療を拒否しない。たとえば膠質代用血漿(colloid or crystalloid replacement fluid)、電気メス、低血圧麻酔、低体温麻酔などを受付けて、輸血なしに手術に成功している。代用血液の使用や超音波メスの使用などは宗教的反対はないし、有望な治療法である。
- 有名な外科医(クーリーとドベイキー)に個人的に問い合わせたところ、彼等はエホバの証人はそれ以外の患者に比べて、手術時の危険が特に大きいとは思わないという回答を得ている。その他にも、輸血なしに手術に成功した整形外科や泌尿器科からの報告がある。
- エホバの証人は、アメリカ医師会の「医師と病院の免責同意書」に何の問題もなく署名し、輸血をしなかったことで医師や病院を起訴することはしない。エホバの証人は医療カードを持っており、これは法的拘束力のある文書であり、エホバの証人も医師もともに法的に保護するものである。
- 未成年のエホバの証人の治療は、確かに大きな関心事であり、裁判所の決定を仰がれることが多い。しかしエホバの証人は、判事のような第三者の決定よりは、家族の宗教上の信条が考慮されることを望んでいる。
- 両親が子供の医療に発言権を持つことは自明である。エホバの証人の親が宗教上禁じられている治療をしないことを要請することは、「人間全体」を治療するという医療の原理にかなったことである。家族の基本的な宗教信念を破って侵襲的処置を行うことは、長期にわたる心理社会的な傷を与えるからだ。
- 多くの医師はエホバの証人を面倒な問題と捉える代わりに、医学上の挑戦ととって、エホバの証人に対する治療法を確立している医療センターが多くある。
- エホバの証人は、自分たちの医療が危険が高くより複雑になっていることを知っている。それゆえ、彼らは医療従事者に特別の感謝を持っている。従って、医師と患者とはこの特異な挑戦に対して連帯できるのである。(「目ざめよ!」1982年6月22日25頁;Journal American Medical Association 1981年246巻21号2471頁;「血はあなたの命をどのように救うことができますか」1990年27頁)
このJAMAの記事で興味あることは、ものみの塔協会の医学の最高幹部が、許されない治療と、「個人の判断」で受けられる治療とを明白に定めて、医学界にJAMA(アメリカ医師会雑誌)という広範な読者を持つ雑誌を使って広報し、更に翌年、その全文を「目ざめよ」誌に転載し、エホバの証人の社会に浸透させたことでしょう。それと同時に、医学界の同情と自分たちの独自の判断を尊重することを懇願しています。
これらの「個人の判断」で受けつけられる治療が、なぜ他の受けつけられない治療に比べて受けつけてよいのかは、この記事では一切明らかにされていません。これに関しては、その後のものみの塔協会の記事の中で少し触れられています。
希釈式自己輸血と手術中の血液回収の解禁
1989年の「ものみの塔」誌3月1日号30頁では、上に述べた基本的な立場が繰り返される一方、実際に患者を治療する側の目から見ると、微妙ながらも再び「抜け道」作りの伏線がはられているのが見えます。この記事では、先ず自己血輸血が、「聖書は明らかに除外している」許されない治療であることを確認した後、体外循環装置(人工心肺、人工透析機など)を通して自己に戻って来る血液を、一定の条件下に受けつけてよいことが確認されています。
蓄えられた血液を前もってその装置に入れておくのでない限り、それは許されると考えたクリスチャンもいます。彼らはその外部の管を、人工器官に血液を通すための自分の循環系の延長とみなし、この閉鎖回路内の血液は依然として自分の一部であり、『注ぎ出す』必要はない、と考えました。(「ものみの塔」1989年3月1日30頁)
これに続いて、興味ある新しい見方(「新しい光」)が紹介されています。
しかし、そのような自己血の流れが短時間止まる場合、例えば、医師が冠状動脈バイパスの移植が完全かどうかを調べる間、人工心肺装置を止める場合などはどうでしょうか。実際のところ、聖書が強調しているのは、血液が連続して流れているかどうか、という問題ではありません。別に手術の時でなくとも、人の心臓は短時間止まってから、再び動き出すことがあります。心停止中に、血液の流れが止まったからといって、それだけで循環系から血を抜いたり、血を処分したりする必要はありません。ですから、自分の血を何らかの外部装置を通して迂回させることを許可するかどうか決めなければならないクリスチャンが注意を集中すべきなのは、おもに血液の流れのわずかな中断が起きるかどうかではなく、迂回する血液が依然として自分の循環系の一部であると良心的に感じるかどうか、ということです。-ガラテア6:5(同)
ここに書かれていることは、微妙ですが、外科的処置の上では大きな影響があります。それというのも、多くの血液を使った治療法に、「短時間」血液が患者の体外に出て、再び体内へ戻される方法があるからです。ここでは、体外に出た血液が自分の循環の一部であるという解釈が以前と同じように強調されていますが、その重点が継続的な流れから、単につながっていればよいという、より拡大的な解釈に変えられたのです。後に医学的な考察の部で紹介しますが、この新しい教えのおかげで、自分の血液は「短時間」体の外に出て、それが「自分の循環系の一部であると良心的に感じられる」限り、実際には輸血と大差がない治療が可能になったのです。実際、これに続く段落では希釈式自己輸血が、許される治療として取り上げられています。
誘導血液希釈についてはどうでしょうか。一部の医師は、手術中に患者の血液を薄めることには利点があると考えています。それで手術の始めに、患者の体外に設けた貯蔵用パッグに幾らかの血液を導き出し、代わりに無血性溶液[血液でない代用液]を注入します。後にその血液は再びパッグから患者の体内に流れるようにされます。クリスチャンは自分の血液を蓄えることをさせないのて、ある医師たちは、患者の循環系に常時つながっている一つの回路に装置を設けて、この方法を採用しました。これを受け入れたクリスチャンもいれば、拒絶したクリスチャンもいます。この場合もやはり、そのような血液希釈回路を迂回する血液を、人工心肺装置を流れる血液と同じようにみなすか、自分から離れた血液てあるから処分されるべきであるとみなすか、各個人が決定しなければなりません。(同)
ここに見られるように、1982年の「目ざめよ」誌のディクソン医師の記事では許されなかった希釈式自己輸血(血液希釈)が、この7年後の「ものみの塔」誌の記事では、一定の条件の元では「各人が決定すべき事柄」として、必ずしも聖書に反する許されない事柄ではなくなったのです。ここにもまた新たな抜け道作りが見られるのです。この記事の最後の抜け道は、やはり1982年のディクソン医師の記事で、「体外循環が中断されない限り」という条件の元でしか許されなかった、手術中の血液の回収(intraoperative collection 出血採集)です。
自己血の使用に関する最後の例は、手術中に血液を回収して再使用することに関係しています。傷口から流れる血液を吸引し、ポンプて送って(凝血塊や不用物[組織片]を除くための)フィルターや(液体を除去するための)遠心分離機を通し、その後に患者の体内こ戻す装置が用いられています。そのようにして血液が回収される際に血液の流れがわずかでも中断するかどうか、その点を非常に心配するクリスチャンは少なくありません。しかし、すでに述ベたように、聖書的に一層心配すべきなのは、手術によって傷口に流れ出る血液はなおその人の一部かどうかということです。血が循環系から傷口に流れ出たという事実は、レビ記17章13節で述べられている血と同様、その血を注ぎ出すべきであるということを意味しているでしょうか。そう信じる人であれば、恐らくそのような血液回収を許可しないでしょう。しかし、別のクリスチャン(やはり、血液を体外に流れさせ、しばらく蓄え、後に体内に戻すようなことをしない人)は、手術箇所から回収したあとに再注入が続く回路であれば、訓練された自分の良心に反しない、と結論するかもしれません。(同)
ここでの新たな拡大解釈に注目しましょう。ディクソン医師の記事では「体外循環が中断されない限り」受けつけられるとされたこの方法が、この1989年の記事では、「手術によって傷口に流れ出た血液はなおその人の一部」と感じられるかどうかという、極めて主観的でとりとめもない条件に変えられたのがわかります。さらに、これに続く節では、自己血を使った治療法に関する、要約の記述がみられます。
ご承知のとおり,自己血の関係した装置や技術の種類は増えています。一つ一つの違いについて論じることはできませんし,そうしようとは思いません。クリスチャンはこうした分野で問題に直面したなら,各自が医療関係者から詳しい情報を得たうえで,自分で決定する責任があります。(同)
この記事のこの要約を見てわかるように、自己血を使った技術や機械の使用は、基本的には個人個人のエホバの証人の判断にまかされるようになりました。ここに、更なる大きな抜け道への準備ができあがりました。
なぜ「小さな」血液成分は許されるのか
1982年のディクソン医師の記事では、なぜ血漿の使用が受けつけられず、血清蛋白や凝固因子の使用が受つけられるのかは説明されていませんでした。1990年6月1日の「ものみの塔」誌はこの点に触れています。
エホバの証人は、免疫グロブリンやアルブミンなど、血液分画の注射を受けますか。
受ける人もいます。それらの人は、聖書は血液から抽出された微小な分画もしくは成分の注射を受けることを明確に禁じていない、と考えています。‥‥
人間の血液は、暗色調の細胞成分と黄色調の液体(血漿、もしくは血清)に分離できます。細胞の部分(全量の45%)は一般に赤血球、白血球、および血小板とよばれるものから成っており、残りの55%は血漿です。血漿の90%は水で、そのほかに少量ながら多くのたんぱく質、ホルモン、塩類、酵素などが含まれています。今日、献血された血液の多くは、それらの主要成分に分離されます。ショック状態の治療のため、患者の血管に血漿(恐らく、FFPと略される新鮮凍結血漿)を注入することがあります。しかし、貧血症の患者には、濃厚赤血球を投与するかもしれません。つまり、貯蔵しておいた赤血球を液体の中に入れて注入するのです。血小板や白血球も注入されますが。赤血球の投与ほど頻繁には行いません。
聖書時代には、そのような血液成分を使う技術は知られていませんでした。神は、血を避けていなさいとお命じになっただけです。(使徒15:20、29)しかし、血液が全血かそれらの成分に分離されているかによって違いが生じる、と考えてよい理由があるでしょうか。ある人々は血を飲みましたが、クリスチャンは、たとえ死ぬことになろうとも血を飲むことを拒みました。だれかが、血を集め、それを分離させ、それからその血漿だけ、あるいは凝固した部分だけをソーセージに混ぜるなどして差し出したなら、それらのクリスチャンは違った反応を示しただろうなあとあなたは思いますか。そのようなことは全く考えられません。そのようなわけで、エホバの証人は、全血輸血や、同様の目的を達成するために用いられる、血液の主要成分(赤血球、白血球、血小板、あるいは血漿)の注入を受け入れません。‥‥(「ものみの塔」1990年6月1日30頁)
先ずここで、はっきりと受けつけられない分画のリストが確認されています。それらは「主要成分」であるからという理由です。次に「良心に基づいて」「個人的に決定」してよい分画が挙げられています。
他方、献血者の血漿のごく微小な分画しか含まず、病気に対する防御機能を高めるために用いられる、免疫グロブリンのような血清(抗毒素)は、命を支える輸血と同じではない、と考えてきた人もいます。それで、そのよう人たちの良心は、免疫グロブリンやそれに類似した血液分画を取り入れることを禁じないかもしれません。(脚注:Rh免疫グロブリンはその一例です。医師は、妊婦とその胎児との間にRh因子の不適合があるとき、そのRh免疫グロブリンを勧めるかもしれません。もう一つの例は、血友病患者に投与される第VIII因子です。)彼らは、自分たちの決定はおもに、他人の血液から生成された注射薬に関連する何らかの健康上の危険を受け入れる気持ちがあるかどうかにかかっている、と結論するかもしれません。
ここではグロブリンやその他の血清たんぱく質が良心的に受け入れられるのは、「血漿のごく微小な分画」であり、「命を支える輸血と同じではない」という理由が挙げられています。しかし、一体何が血液の中で「主要分画」で何が「微小分画」なのでしょうか。上に紹介したものみの塔の記事そのものが語っているように、「主要分画」である血漿の90パーセント以上は水です。その残りの10パーセント足らずがアルブミンとグロブリン(その主要なものは免疫グロブリン)、フィブリノーゲン、凝固因子、塩類、ホルモンなどです。言い換えれば、ものみの塔が、良心的に受けつけられるとした「微小分画」に水を加えると、受けつけられない主要成分になってしまうのです。これでは、まるで、エホバは水を取り入れることを禁止しているかのようです。
1981年のJAMAに掲載された記事の著者で、ものみの塔協会の世界本部の医療部門の主任であったディクソン医師は、統治体の一員に個人的に次のように語ったと言われています。「血液成分をどうやって『大きい』、『小さい』と区別できるのかね。もし患者が自分の命を救うのにどうしてもその成分を必要としているのなら、それは彼にとって『大きい』成分ではないのかね」。(レイモンド・フランツ著『キリスト者の自由を求めて』1991年287頁)
確かに何が主要成分で何が微小分画かは、ものみの塔協会の恣意的な定義によります。生物学的な重要性からいえば、それぞれの要素には全て生体に必要な機能があり、どれ一つ欠けても健康な生命を保つことはできません。量の多さから言えば、白血球、血小板などは、0.1パーセントくらいであり、到底「主要」とは言えません。一方、微小分画と言われているものも、それを取り出して、エホバの証人が使えるようにするには、大量の貯蔵血液を使用しなければなりません。たとえば、アルブミン50グラムの製剤を作るのに、最低一リットルの血液が必要です。また、ガンマグロブリンや凝固因子の製剤などは、その血液内の量が少ないだけ、より大量の血液を使用して作らなければなりません。例えば「ものみの塔」誌1985年6月15日号30頁が述べているように、それぞれの第VIII因子の製剤は2500人の献血者を必要としています。これだけの大量の血液を使用して、一人のエホバの証人の血友病の患者を治療するのに、これが「微小分画」だから許されると言えるでしょうか。実際は膨大な量の血液を、それもものみの塔が使用を禁止している、貯蔵された血液を、ある目的のために、使用しているのです。
次に、別の観点から、「微小分画」を取り入れることが正当化できるという議論を繰り広げています。それは、母親から胎児に移動するという理由です。
妊婦の循環系と胎児の循環系とが別々になっているのは重要なことです。母と子の血液型は違う場合が多いからです。母親の血液は胎児の中へ流れ込みません。母親の血液の有形成分(細胞)も血漿自体も、胎盤という障壁を越えて胎児の血液の中へ入ることはありません。事実、もし何らかの損傷によって母親の血液と胎児の血液が混ざると、後に健康上の問題(Rh因子もしくはABO不適合)が生じかねません。しかし、血漿中のある種の物質は胎児の循環系に入ります。免疫グロブリンやアルブミンなどの血漿たんぱくは入るのでしょうか。確かに、入るものもあります。
確かに、大きなたんぱく質や細胞成分は、胎盤を自由に通過しませんが、時には、妊娠の後期に少量の血液が胎児と母親との間で交換されることがあります。従って、これは全く起こり得ないことではありません。
血漿中の幾らかのたんぱく分画が別の人(胎児)の血液系の中へ現に自然に移動するということは、クリスチャンが免疫グロブリン、アルブミン、あるいは同様の血漿分画の注入を受け入れるかどうかを決める際に考慮できる、いま一つの要素となるかもしれません。正しい良心を抱いてそれができると考える人もいれば、できないと結論する人もいるでしょう。これは各自が神のみ前で個人的に決定しなければならない問題です。
(「ものみの塔」1990年6月1日30頁)
もしある血液成分が、母親から子供に自然に移動することが、「注入を受け入れるかどうかを決める際に考慮できる」ことであるなら、母乳はどうでしょうか。母乳には、血液の約5倍から10倍の数の母親から由来する、大量の白血球が含まれています。乳児が自然に母親の乳を飲み、大量の別の人(母親)の白血球を「食べている」という事実は、同じ様に考慮されないのでしょうか。
エホバの証人の献血拒否の問題
ここまで見てきたように、エホバの証人は実際、多くの血液製剤を受つけて、血液を体に取り入れています。1951年の輸血禁止の明文化のあと、40年以上にわたる歴史は、例外作りと抜け道作りの連続でした。その結果、今日のエホバの証人の多くの兄弟姉妹が、ある人は「自分の良心に反しない」と結論して、これらの治療を受けています。しかし、これらの兄弟姉妹は、本当にその良心が痛まないかどうかを、詳しく検討する必要があるでしょう。血友病の兄弟を助けるための凝固因子は、何千人というエホバの証人以外の献血者の血で作られていますが、エホバの証人は誰一人としてこの血友病の兄弟の治療に手を貸さないのです。Rh不適合を持ったエホバの証人の母親は、胎児赤芽球症を予防するために、Rhグロブリンの注射を受けますが、そのグロブリンを提供できる血液を持ったエホバの証人の姉妹は誰一人献血して、その姉妹を助けようとはしません。すべての製剤は、エホバの証人が「世の人」と軽蔑する、エホバの証人以外の人の献身的な奉仕によっているのです。このエホバの証人たちの態度は、エホバの証人全員が求めている「愛ある親切」と調和するものでしょうか。執筆委員会は、この点に内部改革の重点をおくべきであると考えます。
結語
ここまで見てきたように、エホバの証人の血の教えは、その歴史の中で、細かい規則作りを行う一方で、それに負けないだけの例外と抜け道を作って来ました。このエホバの証人の血の教えに対する態度に関連して、興味あるごく最近の「ものみの塔」誌の記事を紹介しましょう。この引用箇所では、ユダヤ教の律法、特にパリサイ人の規則と抜け道を、クリスチャンの態度と比較して論じている所です。
今日の種々の法体系が例証するとおり、多くの場合、法律が増えれば人が見いだす抜け道も多くなります。イエスの時代、パリサイ人の設けた規則が多かったため、その抜け道を探すことや、愛のこもらない業をおざなりに行うこと、また内面の腐敗を隠すために外面を義で装うことが行われました。
この本文には、次のような脚注がついており、正統派ユダヤ人の「抜け道」がどのようなものであるか、を例を挙げて紹介しています。
ユダヤ教が今日の形で存在しているおもな理由はパリサイ人にあります。ですから、ユダヤ教が、数多く加えられた安息日の制約に今なお抜け道を探すのも驚くには当たりません。例えば、安息日に正統派ユダヤ教の病院を訪れる人は、乗客がエレベーターのボタンを押すという罪深い“仕事”をしないですむようにエレベーターが自動的に各階で止まることに気付くでしょう。正統派ユダヤ教に属する医師の中には、数日で消えるインクで処方箋を書く人もいます。なぜでしょうか。ミシュナが、書くことを“仕事”の範疇に入れているものの、“書く”とは永続的な記号を残すことであると定義しているからです。(「ものみの塔」1996年9月1日17頁)
読者の方は、これを読まれて何を感じるでしょうか。エホバの証人が手術に際して、血液の充満した輸血バッグの一方を自分の一つの静脈につなぎ、他方を血液吸引機につないで、「これは私の体の循環系の一部である」と言って体外に出ている血液を取り入れている姿と、すぐに消えるインクで書いて、「これは永続的な記号を残さないから仕事をしてない」という正統派のユダヤ人の姿と、何か共通点はないでしょうか。
後の医学的検討の部分で、この点は詳しく検討する予定です。しかし、その前に、エホバの証人の臓器移植に関する歴史を考察し、それを踏まえて輸血の問題を更に深く考察していきます。
第五章:臓器移植に関する教えの歴史
臓器移植は人食いである
輸血の問題と同様、ものみの塔協会は、最初、臓器移植に対して、大した反対意見は持っていませんでした。たとえば、次に紹介する1961年8月の「ものみの塔」誌の「読者からの質問」では次のように書かれています。
聖書には人が死んだ後、眼を提供して生きている人の移植に使うことに反対しているでしょうか。-L.C.、アメリカ
自分の体やその一部を死後、科学的実験や他人に移植する目的で、科学者たちに自由にさせることを嫌う宗教団体もあります。しかし、これは聖書のどの原則も律法も関係していないように思われます。ですからこれは個人で決定しなければならない事がらです。自分の心と良心が、そうすることに満足をおぼえるならば、そうすることができます。だれもそのことを批判すべきではありません。反対に、そういうことをするのを拒否したからといって、だれもその人を批判すべきではありません。(「ものみの塔」1961年8月1日480頁)
すなわち、ここでは臓器移植は、「良心の問題」とされており、ものみの塔は特にこれが聖書に反対されている事柄ではないと考えていました。しかし、そのたった6年後の1967年になると、この立場は、やはり、他の医学的な教義と同じように、手のひらを返すように、180度変更されました。1967年11月15日号の「読者からの質問」の欄では、次のような議論が展開されました。
医学研究のために遺体を提供すること、あるいは臓器の移植手術を受けることには、聖書の見地からさしつかえがありますか。-W.L.、アメリカ
‥‥血を食べることは禁じられましたが、人間は動物の肉を食べ動物の命をとって人間の命を支えることを神に許されました。人肉を食べること、生体、死体を問わず別の人間のからだまたはからだの部分によって自分の命を支えることは、その中に含まれていましたか。含まれていません。それはすべての文明人が忌み嫌う人食いの行為です。‥‥病気あるいは欠陥の生じた器官が健康をとりもどすふつうの方法は、栄養分の摂取です。からだは食べた食物を使ってその器官を直し、あるいはいやし、徐々にからだの細胞を更新します。この自然の働きがもはや用をなしていないと判断され、器官を切除して他の人の器官を移植することを医師がすすめるのは、健康回復の近道をとっているにすぎません。この種の手術を受ける人は他の人の肉によって生きることになり、それは人食い的です。エホバは人間が動物の肉を食べることを許されましたが、人の肉の場合それを食べるにしても、あるいは他の人からとられた器官あるいはからだの一部を移植するにしても、人食い的に人の肉を体内にとり入れて命を保たせる行為を許されませんでした。(「ものみの塔」1967年11月15日702頁)
ここに見るように、ものみの塔協会はこの時点で、臓器移植を「人食い」と規定し、エホバが禁じている行為であると教えました。この後、次に見るように、1980年に教義がまた二転三転するまでの13年間というもの、エホバの証人はちょうど現在の輸血に対する態度と同じようにして、角膜や腎臓等の、安全で日常的に行われるようになった治療法を拒否し続け、正常な視力を得たり、人工透析から解放されたりする機会をのがしました。
この間、ちょうど予防接種に反対した時と同様、ものみの塔協会の繰り返し使う、科学に基づかない偽医学が、この移植に対する反対キャンペーンにも使われました。たとえば、次の「ものみの塔」誌の記事を見てみましょう。これは、移植手術にともなって、精神状態の異常を起こした例について述べた記事です。
時々気がつかれる奇妙な因子に、いわゆる「人格移植」というものがあります。これは、移植を受けた人が、臓器を提供した人のある種の人格要素を受け取るように見えることです。一人の性的にみだらな女性が、より保守的で態度のよい姉から腎臓の移植を受けた後、彼女は最初、たいへん怒っているように見えました。しかしその後、彼女の行いは姉に似てきました。別の患者は腎臓移植を受けた後、人生に対する見方が変わったと言っています。あるおとなしい人は、移植の後で、提供者と同じ様な攻撃的な性格になりました。この問題は、主に、あるいは全部が、心の問題かもしれません。しかし、少なくとも、聖書は腎臓と人の感情とを関係づけているのは興味があります。(「ものみの塔」1975年9月1日519頁)
このように、ニュースの中からある医療行為に否定的な記事を、その信憑性も考慮することなく恐怖心を煽る形で宣伝するやり方は、予防接種を否定する時代に繰り返し行われていましたし、ここに見るように臓器移植でも行われていますし、また、後で詳しく見ていくように、輸血の危険性を使って恐怖心をかき立てる宣伝にも使われています。
このような偽科学に基づいた、ものみの塔協会の宣伝の裏には、更に根の深いオカルト的ともいえる、ものみの塔特有の人体、医学、健康に関する不可解な見方があります。例えば次ぎに紹介する心臓に関する見方は、機械的な聖書の逐語解釈を奨励する、ものみの塔ならではの見方です。
‥‥聖書は象徴的な思いについて述べていないのと全く同様、生理的な意味のあるいは文字通りの心臓と対照区別して、象徴的なまた霊的な心臓については述べていません。従ってわたしたちは、文字通りの心臓を、正統的生理学が見るように、単なる肉のポンプと見たいとは思いません。大部分の精神科医や心理学者は、心を細かく分類しすぎる傾向があり、肉の心臓からの影響をわずかしか考慮しません。かれらは「心」という言葉を単なるたとえと見なして、われわれの血をポンプする臓器をさして使う言葉とは区別します。‥‥ 心臓は驚くべき構造を持った筋肉のポンプですが、もっと重要なことに、わたしたちの感情的および動気付けの能力がその中に組み込まれているのです。愛、憎しみ、欲望(良いものと悪いもの)、あるものを他のものより好むこと、野望、恐れ、つまりわたしたちの愛情や欲望との関係で、わたしたちを動気付けるのに資するすべてのものは心から発しています。(「ものみの塔」1971年3月1日134頁)
執筆者の一人は、この記事が出たあとの同じ年の夏の「神の名」大会での劇をおぼえています。その劇では巨大な、光り輝く、心臓が脳と話す劇で、その例えから、わたしたちエホバの証人は心臓の機能について、しっかり覚えることになっていたのです。もちろん、少しでも医学や科学の知識があって心臓のことを知っているエホバの証人はこの教えに、恥をかくせませんでした。この例は、何百万人という世界中のエホバの証人の生死を決めるこれらの医学の教義が、このような偽科学、偽医学を説いてまわる少数の人間によって支配されている現実の危険を、あらためて浮き彫りにするものでしょう。
この1971年の「ものみの塔」誌の心臓に関する議論は、そのまま心臓移植の非難に直結されています。
これらの患者は提供者から与えられた血液のポンプは持っていますが、それでは彼らは「心」を持っていると言えるだけの全ての要素を持っているでしょううか。一つだけ確かなことは、自分自身の心臓を失うことで、彼らは自分の中に何年もかかってを築き上げ、人格に関して自分が誰であるかを決める、「心」の能力を奪い去られたのです。(「ものみの塔」1971年3月1日133頁)
ものみの塔協会によれば、心臓移植を受けた人は自分の「心」が無くなるという議論です。これは、上に述べた人格は心臓にあるという、ものみの塔の「医学説」に基づく心臓移植の非難に繰り返し使われる議論でした。後で、ものみの塔協会の、非科学的恐怖心を煽る宣伝の手法については別に検討を加えますが、第二章で見た種痘の恐怖を煽る同じ手法が、臓器移植に対しても使われています。同じ「ものみの塔」誌1971年3月1日号では、心臓移植を受けた患者に精神異常を来す患者が出ていることを紹介したニュースを大々的に取り上げています。
問題なのは、ここで医学的な論争を繰り広げることではなく、医学的な論文の評価の仕方を全く知らない一般のエホバの証人に対して、このような治療の合併症を取り上げた記事を一方的に紹介する、ものみの塔協会の態度そのものなのです。どのような治療にも、ほとんど必ずといって良いほど、副作用や合併症があり、世界中の医師たちはそれを互いに報告しあって、より問題の少ない、よりよい治療をめざしています。もちろんそこには、合併症に関する報告だけでなく、どれだけその治療が有効であったかを報告する記事も、より多くあるはずです。それを一切伝えずに、否定的な記事を一方的に雑誌に載せて、世界中の何百万人のエホバの証人に一斉に「霊的食物」として与えるその過程は、巧みな大衆心理の操作法を使った、大衆マインド・コントロールと言うことができないでしょうか。
もう一つの例を見てみましょう。「目ざめよ」誌の「世界展望」という欄は、長年にわたってこの大衆の心理操作の目的で使われてきました。ここでは、ものみの塔協会が、世界中のエホバの証人に知らせたいニュースを厳選して紹介するもので、ものみの塔協会の主張を裏付けするようなニュースが主に掲載されています。この1961年から1980年の間の輸血も臓器移植も両方とも禁止されていた時代には、この両方の恐怖心を一緒に煽る記事が度々登場しました。
輸血の恐怖
ヴィースバーデナー・キュリエの報告によると、ドイツのキール大学診療所では去年、二人の赤ん坊が輸血により梅毒に感染しました。どこから感染したかわからないので、少なくとも関係した一つの家族は、互いに相手が不義を冒したと非難しあって、離婚の危機になりました。裁判で真実が明らかにされましたが、すでに取り返しのつかない傷がつくられました。「二人とも真実を知ったあとでは、お互いに恥じるようなことを言い合っていた後でした」とその記事は伝えています。
更なる移植の合併症
臓器移植を受けた人たちの間に癌の発生率が、一般人口に比べて100倍も高いことが、最近報告されました。しかし、コロラド大学医学センターのウォルフ・カーシュ医師によると、脳腫瘍の頻度は「約1000倍大きい」そうです。新しい器官の拒絶反応を抑えるための長期にわたる免疫抑制療法が、患者を「病的な過程の罠」に巻き込む、とその医師は語りました。 そのような患者を救える見通しは「暗い」そうです。
(「目ざめよ」1974年2月22日30-31頁)
明らかに、ものみの塔協会の執筆者たちは、世界中のニュースに眼を光らせ、少しでも輸血や臓器移植についての悪いニュースがあれば取り上げますが、一方それらに関する全てのよいニュースは、もちろん葬り去るのです。
臓器移植は良心の問題である
しかしこの、ものみの塔の有名な医学教義の一つは、突然1980年に手のひらをかえすように変更を加えられました。
パブテスマを受けたクリスチャンが、角膜や腎臓など、人体の一部の移植を受けた場合、会衆は何らかの措置を取るべきですか。
ひとりの人間から別の人間へ人体の組織や骨を移植するかどうかは、エホバの証人各自が良心的に決定すぺき問題です。‥‥
今日の誠実なクリスチャンの中には、医学的に人体の一部を移植することを聖書ははっきりと非としてはいない、と考える人もいるでしょう。そのような人は、移植される体細胞が恒久的な意味で、受け入れる側の体の一部になるわけではない場合もある、と論じるでしょう。体細胞は七年ことに入れ替わると言われており、移植される人体の部分も例外ではありません。また、食物を供するために“提供者”が殺されるわけではないので、臓器の移植は人食いとは異なる、との論議も出されるでしょう。中には、死期の迫った人が実際に遺言で自分の体の一部を移植のために用いるよう言い残す場合もあります。言うまでもなく、移植に伴って他の人の血液を体内に入れなければならないのであれば、それが神の律法に反することに疑問の余地はありません。-使徒15:19、20。
明らかに、移植というこの問題に対する個人の見解や良心的な感じ方は様々です。人間の用に供するために人体の一部を使うことは、ホルモンや角膜などの小さな物から、腎臓や心臓など主要な臓器に至るまで多岐にわたっていることは良く知られています。聖書は特に血を食べることを禁じてはいますが、他の人間の組織を受け入れることをはっきりと禁じている聖書の命令はありません。そのわけで、この問題について決定を迫られる人各々は、物事を注意深く、祈りのうちに考量し、それから神のみ前で自分のできること、あるいはできないことを良心的に定めなければなりません.それは個人的に決定を下す問題です。(ガラテア6:5)ある人が臓器の移植を受けたとしても、会衆の審理委員会は懲戒措置を取らないでしょう。
(「ものみの塔」1980年3月15日31頁)
この重大な教義の変更には、多くの問題点を含んでいます。先ず第一に、予防接種を解禁にした時と同様、それまでの移植禁止によって被った、一般のエホバの証人に対する一言の反省の言葉も、同情も読み取れません。第二に「今日の誠実なクリスチャンの中には、医学的に人体の一部を移植することを聖書ははっきりと非としてはいない、と考える人もいるでしょう」とは、何と偽善的な言い方でしょう。実際には、それまでのものみの塔の指令を守らずに「人体の一部を移植することを聖書ははっきりと非としてはいない」と考えて臓器移植を受けたエホバの証人は、排斥処分を受けているのです。そのような人々が、ものみの塔協会の呼ぶ「今日の誠実なクリスチャン」と言えるのでしょうか。この1980年の「新しい光」は、何のことはない、1961年の「古い光」すなわち「良心の問題」に立ち返ったに過ぎません。
次に注目しなければならないのは、臓器移植を個人の良心に基づいて受けても構わないとして、ここに挙げてある理由です。先ず、ものみの塔協会は臓器移植が「人食い」であると主張した1967年の立場に変更を加えなければなりません。そこで、「移植される体細胞が恒久的な意味で、受け入れる側の体の一部になるわけではない」こと、「“提供者”が殺されるわけではない」ことの二つが、人食いと異なる理由として挙げられています。しかし、この二つの理由は、そっくりそのまま輸血の問題にも当てはまるのです。すなわち、輸血された血液細胞は「恒久的な意味で、受け入れる側の体の一部になるわけではない」のであって、実際血液細胞は、移植された臓器より遥かに短時間の間に自分自身の血液細胞によって置き換えられてしまうのです(赤血球は約120日、血小板は約10-12日)。また、もちろん輸血でも「“提供者”が殺されるわけではない」ことは明白です。したがって、これらの理由で臓器移植が「人食い」でないのなら、全く同じ理由で、輸血もまた「血食い」ではないのではないでしょうか。
また「他の人間の組織を受け入れることをはっきりと禁じている聖書の命令はありません」という文章にも注目して下さい。この文章で「組織」という言葉を「血」と置き換えれば、これは同じ様に聖書に関する真実を言い表しているのです。聖書に動物の血を食べることを問題にしている箇所はありますが、他の人間の血を食べることを、はっきりと禁じている聖書の命令はありません。もしこの理由で臓器移植が「良心の問題」となるのなら、なぜ輸血は「良心の問題」にならないのでしょうか。
この1980年の臓器移植解禁にともなって、ものみの塔はそれまでの、臓器移植反対に使っていた、奇妙な協会特有の医学、科学に関する見解も変えなければなりません。例えば、前に紹介した、心臓が「心」の座であって、心臓移植をすると「こころ」のない人間になってしまう、という立場は次のように変えられました。
しかし、聖書では“ハート”への言及がこのほか1,000回近くなされており、“ハート”は明らかに比喩的な意味で用いられています。‥‥心臓という臓器と比喩的な心臓つまり心との間に区別を設けなければならないことは明らかです。(「ものみの塔」1984年9月1日7頁)
さらにその二年後には、次のような、苦笑を禁じ得ない、ある意味では滑稽な記事さえ登場します。
古代のエジプト人は肉体的な心臓が知恵や感情の座であると信じていました。かれらはまた、心臓にそれ自体の意志があると信じていました。バビロニア人は心臓が知恵と愛を住まわせていると言いました。ギリシャの哲人アリストテレスは心臓が感覚の座であり、魂の領域であると教えました。しかし、時がたち知識が増えるにつれて、これらの考え方は捨て去られました。そしてついに、心臓は体中に血液を循環させるポンプであるという実態が知られたのです。(「ものみの塔」1986年6月1日15頁)
皮肉なことに、ものみの塔のこの同じ雑誌が、そのほんの数年前までこれらの古代の人間たちと同じことを教えていたことには、全く触れられていないことです。さらにより最近の「目ざめよ」誌では、1970年代の心臓移植に伴う恐怖心を煽るニュースの数々は忘れたかのように、エホバの証人の心臓移植の成功例を次のような誇らしげな記事で紹介しているのです。
無輸血の心臓移植
昨年の10月、3歳のシャンドラ・シャープは、米国オハイオ州クリーブランドの病院に入院しました。彼女の心臓は肥大していただけてなく、機能も衰えていました。栄養不良て発育が阻害きれ、体重も9㌔しかなく、しかも心臓移植を必要としていました。あと数週間しか生さられないと言われました。両親は移植に同意しましたが、輸血は拒みました。エホパの証人だったからてす。外科医のチャールズ・フレイザー博士にとって、これは特に問題とはなりませんてした。ミシガン州の1993年12月1日付のフリント・ジャーナル紙は次のように伝えています。「フレイザーによると、クリーブランド・クリニックと他の医療施設は、移植を含め多くの手術を、患者の体内に他の人の血液を注入せずに行なうことに熱練しつつある。『我々は、どのように出血を防ぐか、どのように心肺装置に血液以外の溶液を満たすかについて、いろいろと学んできた』とフレイザーは述ペた」。同博士はそれからこう付け加えました。「幾つかの専門病院てはこれまて何十年もの間、輸血をせずに心臓血管の大手術を行なってきた。‥‥我々はいつも、(輸)血なしの手術を行なうよう心がけてきた」。10月29日、同博士は輸血をせずにシャンドラの心臓移植を行ないました。1か月後、シャンドラは元気になったと伝えられています。(「目ざめよ」1994年5月22日7頁)
骨髄移植は許されますか
さらに最近の医学の進歩は、より多くの、ものみの塔にとって「灰色」の領域を提出してきました。その一つは骨髄移植です。これは1984年の「ものみの塔」の「読者からの質問」で扱われています。
血液か骨髄て造られることからすると.クリスチャンは骨髄移植を受けることかできますか。
‥‥神の僕は、『血を避けて』いなければならない、と聖書ははっきり述べています。(使徒15:28,29。申命記12:15、16)では、赤血球が赤色骨髄でできるので、聖書は骨髄を血液と同列に分類しているでしょうか。そのようなことはありません。事実、動物の髄は、食べてもよいほかの肉と同じように言及されています。イザヤ25章6節は、神がご自分の民のために準備される宴の中に、「髄と共に油を十分に用いた料理」が含まれていると述べています。通常の処理法て屠殺し、血を流し出しても、髄から血液細胞すべてを流し出すことは決してできません。それでも、屠殺した動物の胴体からひとたび血を流し出したなら、髄を含むその組織のどの部分を食べてもかまわないてしょう。
言うまでもなく、人間の骨髄移植に用いられる骨髄は生きた提供者からのもので、採取された骨髄には幾らか血が含まれているかもしれません。ですからクリスチャンは、移植用の骨髄が-自分にとって-単なる肉片に相当するか、あるいは血の抜かれていない組織に当たるかを自ら決定しなければならないてしょう。それに加えて、骨髄移植は移植の一形態なので、人間の臓器移植に関する聖書的な面も考慮しなければなりません。本誌の1980年6月15日号の「読者からの質問」をご覧ください。(「ものみの塔」1984年5月15日31頁)
これを読んでわかることは、聖書に骨髄を食べたという記述があるから、移植を受け入れても構わないが、一方骨髄には血液が含まれる可能性があるから、最終的には個人で決めることである、と教えられています。骨髄移植の目的は、骨髄にある血液細胞を作る元になる細胞、これを幹細胞と言いますが、を様々の病気で血液を作る能力の無くなった患者に移し、造血能力を回復させることです。しかし、これは心臓移植や腎臓移植のように、提供者の体を切り開いて臓器を切り出すわけではありません。その手続きは、先ず生きている提供者の腸骨(腰骨)を太い針で何度も穿刺吸引して、骨の中心に含まれる血液を吸引してきます。これを集めて骨片や脂肪などを除いてきれいにした後、輸血と全く同じ要領で患者の静脈に注入します。これを骨髄血と言いますが、見た目は普通の血液と区別はつきません。違いは、輸血される血液内の細胞成分の違いで、普通の血液(末梢血)にはわずかの幹細胞しか含まれませんが、骨髄血にはたくさんの幹細胞が含まれることです。この違いは血液を顕微鏡で調べてみて初めてわかることです。
もちろん、輸血と骨髄移植では名前が違いますから、ものみの塔の指導部にとっては全く別の治療行為であって、その一方は命を捨ててでも絶対に受けつけられないものであるのに対し、他方は「個人的に決める問題」と区別して考えているのでしょう。しかし骨髄移植の実際は、大量の血液が、輸血と全く同じ形で注入されるのであり、そのことは輸血と本質的に変わりません。確かに動物の死体を食糧として食べる人間の観点に立てば、液体である血を飲む行為、あるいは血の抜いてない肉を食べる行為と、骨を割ってその中の脂身である骨髄を食べる行為とは全く別に見えるでしょう。(骨髄が美味であるのはその脂肪のせいであり、成熟した動物や人間の骨髄の大部分は、造血組織が脂肪組織に置き換わっています。)しかし、その違いは現代の医療行為には全く反映されないのです。動物の死体を食べる観点と異なり、血液疾患を治療する観点からすると、骨髄と血液は見かけもそっくりであれば、成分も、その一部の幹細胞の存在を除けば、非常に似たものです。もし輸血が命を失っても避けなければいけないものであるのなら、骨髄血の輸血、すなわち骨髄移植も同じように禁止されるべきではないでしょうか。
ごく最近の1990年代の新しい治療法の進歩は、さらに、ものみの塔協会の医学方針の設定を困難にします。最近、新しい骨髄移植に変わる方法として、自家末梢血幹細胞移植と、臍帯血、あるいは胎盤血幹細胞移植という治療法が開発されつつあります。これはともに「移植」という言葉が使われていますが、実質は輸血です。自家末梢血幹細胞移植では術前の治療処置により、患者の末梢血の中に大量の幹細胞を動員させ、それを採取して保存し、後に注入する方法です。これは自己血輸血と実質的には同じことですが、輸血される血液が大量の幹細胞を含むことが違うだけです。これは「移植」という名前がついていますが、多分ものみの塔の解釈では許されない治療法に分類されると思われます。臍帯血、あるいは胎盤血幹細胞移植では、元々幹細胞をたくさん含む臍帯血や胎盤血を冷凍保存し、後で骨髄移植が必要な状況下で、骨髄移植の代わりに使う方法です。これですと骨髄移植の高度に侵襲的な骨髄の採取が不要となり、今後有用性が期待される治療法です。「ものみの塔」誌はすでに、1997年2月1日号で臍帯血の医学的使用に否定的で、臍帯血は捨て去ることを、エホバの証人に勧めています。
報道によれば、ある病院では出産の後、胎盤や。臍帯の血液中の物質を抽出するために、そうしたものを保存しているということです。クリスチャンは、このことを心配すべきでしょうか。
‥‥もつと最近では、後産から採取した血液を用いて、ある種の白血病の治療に成功した、と唱える研究者たちがいます。そのため、そのような血液は、ある種の免疫不全の治療に役立つかもしれないとか、骨髄移植の代わりになり得るという推測がなされています。我が子の治療に将来役立つかもしれないということで、後産から血液を抽出し、冷凍し、貯蔵してもらう親のことが時折報じられるのは、そのためてす。真のクリスチャンは、そのように胎盤の血液を商品化することに心を引かれることはありません。彼らは、神の完全な律法を考えの導きとします。人間の創造者は、血を神聖なもの、神から与えられた命を表わすものと見ておられます。神が認めておられる血の唯一の用い方は、犠牲に関連して祭壇の上で用いることでした。
‥‥入院しているクリスチャンは、自分の体から採られたものは、排泄物てあれ、病気に冒された組織てあれ、血液であれ、処分されるものと理解しています。‥‥もし患者の側に、そのような通常の手順が踏まれていないように思えるもっともな理由があるなら、担当医にそのことを話せるかもしれません。宗教上の理由で、その種のものはすペて処分してほしいと述べることがてきます。
しかし、幹細胞のたくさん含まれる「骨髄血」の輸血を「骨髄移植」の名の元に「個人で決める問題」として許しておいて、同じく幹細胞のたくさん含まれる「臍帯血」の同じ様な使用法を否定しているのはなぜでしょうか。片方には臍帯血という「血」という字(あるいはbloodという言葉)が含まれるのに、骨髄移植には「移植」(transplant)という、ものみの塔が1980年に解禁した治療法のことばが含まれているからの違いだけではないでしょうか。
臓器移植と輸血は本質的な違いがありますか
ここまで考えて来ると、一体輸血と移植とは一体本質的な差があるのかという疑問に到達するのではないのでしょうか。ものみの塔によれば、輸血は「血を食べること」あるいは「血で養うこと」であるから聖書の教えに反すると、長年の間教えてきました。しかし、そこには本質的な観点が失われています。輸血では取り入れられる組織の、生物的機能、すなわち酸素を肺から末梢組織に届けたり、感染と戦ったり、止血の過程に参加したり等、が受容者の側で同じ様に働き続けるのに対し、「食べる」行為では、取り入れられる組織は、破壊されて消化、吸収され、受容者の栄養素となって働きます。従って、輸血は血液細胞の移植なのです。
多くの人は輸血を受けることは血を食べることとは違うといいます。この見方は確かなものですか。
病院にいる患者は口からでも、鼻からでも、静脈からでも養われます(feed)。糖の溶液が静脈から与えられる時、それは経静脈栄養補給(feeding)と言います。ですから、病院の用語の中そのものに、静脈を通して、人の体の中に栄養を与える過程を養うこと(feeding)と認めています。従って病院で患者に輸血をする人は、その患者を静脈を通して血で養っているのです。‥‥
(「ものみの塔」1951年7月1日415頁)
この議論は、ただ静脈と管とそこを流れる液体という、ただの見かけだけで議論している、詭弁というか、屁理屈としかいいようのない議論です。
輸血は本当に血を食べることと同じですか
病院では、患者が自分の口を通して食事を取ることができない場合、その患者には静脈を通して養分が与えられます。では、自分の口の中に決して血を入れなくても、輸血によって血を体の中に受け入れる人がいる場合、その人は本当に、「血‥‥‥を避けている」ようにという命令に従っていると言えるでしょうか。(使徒15:29)例えとして、アルコールを避けるようにと医者から言われた人のことを考えてください。飲酒はやめても、アルコールを直接静脈の中に注入させるとすれば、その人は指示に従っていると言えるでしょうか。(「聖書から論じる」1989年309頁)
これもまた、無茶な論理です。確かに一昔前の医師が、弱っている患者に対し、元気づけのために輸血をしたことは、否定できません。しかし現代の医療界では、このような昔の習慣が反省されて、輸血は最小必要限度にとどめられています。実際のエホバの証人の輸血拒否例を見てみた場合、口から食べられないからといって輸血を勧められたエホバの証人がいるでしょうか。先ず皆無のはずです。現代のほとんど全ての輸血は、急性の失血(手術や外傷による)により、失われた血液細胞の機能が他の代用手段で補えきれない時に、それを一時的に補うために行われる緊急手段です。
アルコールのたとえも、屁理屈としか言いようがないでしょう。アルコールは化学薬品であり、血液のような生体組織とは異なります。アルコールは口で飲む状態と、血中の状態は同じで、従って似たような効果が出るから、口から入れることも、静脈から入れることも同じ様に扱えるでしょう。同じことが水でも言えます。しかし、血液が口から入った時と、静脈から入った時とでは、全く別の効果を示します。いくらものみの塔が、特別な科学的見解を持っているにしても、口から食べた血液が、アルコールのように、そのままの形で血液の中に現れるとは主張しないでしょう。血液を食べることが静脈に入れることと同じことだとそこまで主張するのなら、出血をしている患者に輸血の代わりに血液を食べさせたら同じ結果になるでしょうか。
ものみの塔は、その「血の教え」を押し通すために、この「輸血」イコール「食べること、養うこと」の議論をどうしても確立したくてしょうがありません。次の議論は、その涙ぐましい、なりふり構わぬ議論の例です。ものみの塔の議論によく出てくる手法で、「権威者」の口から自分たちを正当化する議論を語らせます。
血液が口からでなく静脈からとり入れられることは重要なことではありません。またある人が言うように、経静脈栄養とは同じではないという議論も重要性はありません。事実は血が人体の生命を養って支えることでなのです。この見方と調和するのはジョージ・W・クリル著の「出血と輸血」の中に出てくる言葉であり、その本はフランスの医師で輸血の領域で早くからの研究者であったデニスからの手紙を引用しています。そこにはこうあります。「輸血をすることは、普通の経路から近道をして栄養を与えているに過ぎない。つまり、何度かの変化を経た後に血液になる食物を摂取する代わりに、すべて出来上がった血液を静脈に入れるのである」。(「ものみの塔」1961年9月15日558頁)
しかし、ここでものみの塔協会が決して教えない事実があります。ここに引用されているフランス人医師ジャン・バプティステ・デニスは17世紀の医師なのです。もちろん、こんな江戸時代に相当する古い医師の説を現代の医学に当てはめるなど、到底考えられないことですが、ものみの塔はその自分たちの主張をなんとか正当化するために、必死でこのような「権威者」の引用を持ってくるのです。1990年の「血はあなたの命をどのように救うことができますか」のブロッシュアーの6頁では、トマス・バルトリンという、やはり17世紀の解剖学者を引っぱり出して、「血によって病人は養われ、また回復させられるのである」という言葉を引用しています。
このような記事から何が言えるでしょう。ものみの塔協会は、自分たちの聖書的根拠の薄い教義を何とかエホバの証人たちに納得させようと、「科学的権威」を使って自分たちの曲折した解釈を正当化しようとしているのですが、どうさがしても、17世紀の「権威」しか、彼らの解釈を指示する「権威」はいないということです。確かに、現在の生理学者、栄養学者、血液学者等で、この輸血イコール栄養をとること、という解釈をとる人は、いないのです。
ものみの塔は最近になり、余りにもばからしいこの議論に気がついたのか、最近の論理は「食べること」から「生命を支える」こと、に論点を変えています。これは、確かに輸血のある程度の適応をカバーするかも知れません。しかし、ものみの塔はここに来て、今度はとんでもない間違いを冒しています。というのは、聖書には血を文字通り「食べる」ことは禁じていても、聖書のどこにも、血で「生命を支える」ことを禁じる言葉はないのです。ここに来て、ものみの塔は、「聖書の枠を越えた」教えを金科玉条として教えている自らの姿を明らかにしたと言えるでしょう。
この「輸血イコール血を食べること」の議論に欠けている基本的視点、あるいは、ものみの塔が意図的に無視するか隠している点は、輸血が基本的に血液組織の移植であるということです。輸血が成り立つには、注意深くその細胞成分の生物学的機能と形態を保つ努力が必要です。そして、いったん受容者の体内に入ると、元来の血液細胞としての機能を果たすことにより、その輸血の目的が達成されるのです。血液を食べた場合は、その細胞成分は破壊され、消化吸収されて、全く血液細胞の機能はゼロになってしまいます。そして、この点は、実はものみの塔自身も不本意ながら認めています。ただ、それを大々的に宣伝しないだけです。
心臓血管外科医のデントン・クーリーの言っている通り、「輸血は一つの臓器移植である。‥‥私はほとんど全ての輸血にある程度の組織不適合があると思う」。(「目ざめよ」1990年10月22日9頁)
医師たちが心臓や肝臓などの器官を移植する場合、移植を受ける人の免疫機構は異物を感じ取ってそれを拒むかもしれません。しかし、輸血は一種の組織移植です。“正しく”交差試験の施された血液でさえ、免疫機構を抑制する恐れがあるのです。(「血はあなたの命をどのように救うことができますか」1990年8頁 イタリックによる強調は、原本では下線が引いてある)
これらの引用は、ともに輸血の困難さを強調するために、多くの「権威者」の引用を持ってきたものですが、恐らく、ものみの塔協会の筆者も考えないうちに、実は非常に重要な視点を明示しています。そうです、輸血は一つの臓器移植です。そして、臓器移植である行為が同時に「食べる」行為ではあり得ないのです。いや、多分ものみの塔は、このように出版物に明示してあるくらいですから、輸血が移植の一種であることを知っているのかもしれません。しかし、そのことを認めることは、現在の「血の教え」全体の体系を崩すことになり、出来かねるのです。
先に、ものみの塔が臓器移植を「良心の問題」として解禁した時、「医学的に人体の一部を移植することを聖書ははっきりと非としてはいない」ことと、「移植される体細胞が恒久的な意味で、受け入れる側の体の一部になるわけではない」ことを理由にあげてあったことを見てきました。しかし、この二つの理由は、そっくりそのまま、輸血、すなわち「血液細胞移植」にもあてはまるのです。「医学的に血液を移植することを聖書ははっきりと非としてはいない」し(食べることは非としてあったとしても)、「移植された血液細胞が恒久的な意味で、受け入れる側の体の一部になるわでではない」のです。
ものみの塔は1967年から、1980年までの間、輸血と臓器移植を同じ理由で禁止しました。
● 腎臓移植は「人食い」であるから、聖書で禁じられている。
● 輸血(血液細胞移植)は血を食べること(「血食い」)であるから、聖書で禁じられている。
1980年以降、この立場は次のように変わっています。
○ 腎臓移植は「人食い」ではないから、聖書で禁じられていない。
● 輸血(血液細胞移植)は血を食べること(「血食い」)であるから、聖書で禁じられている。
同じ理由でありながら、一方を解禁し、他方を禁止し続ける何と片手落ちの、「教え」ではありませんか。
結語
ものみの塔協会が真に「血から避ける」ことがエホバの絶対的命令であり、これを守ることがこの地上での命を救うことより遥かに重要だと考えるのなら、徹底してそれを行うべきでしょう。すべての血液製剤をきっぱりと拒否すれば、これだけたくさんの「読者からの質問」の紙面を使って、例外に次ぐ例外、抜け道に次ぐ抜け道を作る必要はないでしょう。しかし、世界中五百万人以上のエホバの証人の実生活を考えると、ある程度、「良心的に決める事柄」を作って、稀ではあるけれど実際にこのような治療を必要とする証人の福祉も考えなければならないことに気付くでしょう。それはちょうど、ひたすらモーセの律法を守っていたパリサイ人が、長年の間に実生活にあわせるために、細かな規則と抜け道を作り上げた事情と似ていることに気がつきませんか。そのようなパリサイ人を見てイエス・キリストは何を教えたでしょうか。パウロはどのように対応したでしょうか。形式的に律法を守って、実際には例外を作ることでしょうか。「血は避ける」と大声で叫びながら、その実は、少量だから血清は構わない、「自分の循環の一部と感じられる」から体外の血液を受け入れても構わない、という抜け道探しの態度だったでしょうか。
エホバの証人の兄弟姉妹の皆さん、もう一度、聖書を通してお読み下さい。そして、イエスの「忠実な奴隷」を自称して、世界中五百万人の命と健康を預かる指導者として、ニューヨーク・ブルックリン本部の統治体の推進している「血の教え」が本当に、「主人」であるイエス・キリストの教えにあうものであるかを、ここで再検討してみて下さい。わたしたちは、この「血の教え」を廃止することが、世界のエホバの証人の真のエホバとイエスの元での、愛ある交わりを保っていける鍵であると信じて、この活動をはじめました。これがわれわれ、執筆委員会の「現状を憂う」エホバの証人の、聖書的良心に基づいた訴えです。