エホバの証人の血の教えの歴史的発展とその考察

この記事は村本治医師の許可を得て掲載する「エホバの証人情報センター」の記事です。原文のまま掲載をしております。趣旨についてはこちらをご覧ください。

  エホバの証人はその教義も宗教活動も、厳密に聖書に則っていることを誇りにしています。血の教えに関してもその例外ではありません。エホバの証人の伝道者のほとんどは、血の教えに関して質問を受ければ、空でいくつかの聖句を引用して、いかに聖書が血液を拒否することを教えているかを示すことができます。このページでは、聖書の引用と、ものみの塔協会の出版物の引用を通して、エホバの証人が血液を拒否する根拠となる聖書の箇所を詳細に検討してみたいと思います。

 なお、読者の読みやすさを考慮して、聖書の引用は青、ものみの塔の出版物の引用は赤の文字で示してあります。また聖書の引用は特に断りが無い限り、ものみの塔聖書冊子協会発行の「新世界訳聖書」を使用してあります。ものみの塔協会の出版物の引用は、日本語版が手に入るものに関しては、日本語版から引用し、日本語版の入手できなかったものに関しては、英語版CD-ROMから執筆委員が翻訳しました。

 エホバの証人が血液による治療を拒否するのに使う聖書上の根拠とするものは、大きく分けて三つあります。それらは、創世記第9章のノアの契約、レビ記17章を中心とするモーセの律法、そして使徒15章を中心とするいわゆる「使徒の布告」です。以下これらの三箇所を、順番に検討していきます。最後の章では新約聖書全体から血の教えを検討し、結論を導き出しています。各章の理解は前の章の理解が前提になっていますので、途中から読まずに第一章から順番にお読み下さい。

第一章:創世記第9章とノアの契約

 創世記の記載によれば、ノアとその家族が大洪水を生き残った時、彼らは唯一の人類の生き残りでした。神はそこでノアを通して、人類と契約を結んだのでした。この契約の中に、エホバの証人の主張する血を食べることの禁制が出てきます。

3生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように,わたしはそれを皆あなた方に確かに与える。4ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。5さらにわたしは,あなた方の魂の血の返済を求める。すべての生き物の手からわたしはその返済を求める。人の手から,その兄弟である各人の手から,わたしは人の魂の返済を求める。6だれでも人の血を流す者は,人によって自分の血を流される。神は自分の像に人を造ったからである。7そしてあなた方は,子を生んで多くなり,地に群がってそこに多くなれ」。 (創世記 9:3-7)

 エホバの証人はこの部分に関して、1990年発行のいわゆる「血のブロッシュアー」と呼ばれる『血はあなたの命をどのように救うことができますか』の中で次ぎのように述べています。

そうした箇所の最初のほうで創造者は,「生きていて,動くものはすへて,あなた方の食物となる。‥‥しかし,命の血がまだその中にある肉は食へてはならない」と宣言し,「あなたの命の血に対して,わたしは確かに言い開きを求める」と付け加えてから,殺人を非とされました。(創世記9:3-6,新国際訳)創造者はノアにそのように語られました。ノアはユダヤ人からも,イスラム教徒からも,クリスチャンからも大いに尊ばれている人類共通の先祖です。そのようにして,創造者から見て血は命を表わすということが全人類に知らされました。これは食事に関する規定以上のものでした。ここに道徳的な原則が関係していたことは明らかです。人間の血は重要な意味を持つものであり,誤用すへきではありませんでした。後に創造者が付け加えられた詳細な点から,創造者が命の血と道徳上の問題を結びつけておられることを容易に理解できます。(『血はあなたの命をどのように救うことができますか』1990年3頁) 

 しかし、このノアの契約が、本当に人間が血液を食べたり体に取り入れたりしていることを絶対的に禁じているのでしょうか。ここではこの創世記9:3-11をもう一度よく見てみましょう。そこには次の三つの項目がはっきりと契約としてうたわれています。

  1. 人間は動物の肉を食べてもよいが、「その魂つまりその血を伴う肉」は食べてはならない。
  2. 人の血を流すこと、つまり殺人をしてはならない。人の血を流す者は,人によって自分の血を流される、つまり死刑になる。
  3. 子を生んで多くなり,地に群がってそこに多くなれ。

 ここでは幾つかの、ものみの塔の記事が語らない重要な点を指摘しましょう。先ず、ものみの塔は意図的に9章7節を無視します。もしエホバの証人がこのノアとエホバとの契約が全人類を永遠に束縛する最も重要な規定であると信じるのなら、この第三の項目、すなわち「子供を産み増やせ」というエホバの命令を彼らはどの程度真剣に守っているのでしょうか。 ものみの塔の避妊と産児制限に関する態度は、1989年9月22日の「目ざめよ!」誌23-24頁(英文)に明らかに述べられています。エホバの証人は避妊を行うことに全く反対していないのです。それどころか、このエホバのノアに対する「子供を産み増やせ」という命令に関して、この「目ざめよ!」誌の記事では「この命令は明らかにその当時存在した特別な状況に関係していました」と述べています。

 もし、ものみの塔協会が主張するように、このノアの契約が全人類を永遠に束縛する重要な規定であると信じるのなら、そのうちの一つは「その時だけのもの」と軽視して、エホバの証人が避妊法を行うのを、輸血を禁止するのと同じ熱心さで禁止しないのはどういう訳でしょう。1988年3月1日の「ものみの塔」誌26頁(英文)では「今日、子供を生むことは、エホバが特に人々に与えた仕事の一部になっているわけではありません」と書いてあります。また歴史的に、ものみの塔協会はハルマゲドンが迫っているこの時点では結婚して子供を作ることは見合わせるように、と教えてきました。矛盾した自分勝手な聖書解釈の典型ではないでしょうか。

 しかし、イエス・キリストが人類に与えられた後の、現在のわれわれクリスチャンにとって、このノアの契約は本当にものみの塔が主張するような、永遠に厳密に守らなければならない掟なのでしょうか。イエス・キリストによる新しい契約では、これらの古い契約は新しい契約の中に「成就され」統合されており、それだけを取り上げて新しい契約全体の中での位置づけを見ないのは、聖書全体を通して聖書を解釈しない、エホバの証人の特徴なのです。イエスもパウロも結婚しない生き方も勧めているところからも分かる通り(第一コリント7:38)、確かに「子供を産み増やせ」という命令はイエスもパウロも絶対的に重要な掟とは考えていませんでした。

 次に問題にしなければならないのは、9章6節の殺人の禁止です。ここには人を殺した者は自分も殺されなければならない、と命じています。この命令は本当に全人類を拘束する永遠の命令だったでしょうか。聖書の中には沢山の殺人が記載されています。ある場合にはエホバ神はそのような殺人を犯した者を罰することなく、逆に是認したことさえありました。また、沢山の人が聖書の中で間違って殺されていますが、そのような場合、殺した者は死刑に処せられませんでした。エホバ神は状況に応じて多くの例外をご自身で設けているのが聖書の中で読み取れます。更に新約聖書の時代に入ると、パウロはキリストに改宗する前にステファノの処刑に参加していますが、彼は死刑に処せられませんでした。文字に書かれた律法を守ることより、愛による赦しを教えたのがイエス・キリストでした。この例でも分かるとおり、このノアの契約はものみの塔協会が教えるような絶対で永遠の命令ではないことが、聖書の中に示されているのです。

 最後に問題にしなければならないのは、このノアの契約、あるいは旧約聖書の中での「血」の意義です。注目しなければならないのは9章6節で「人の血を流す」という言葉で殺人を表現していることです。これは文字通りに皮膚を切って出血することを禁じたものではなく、明らかに殺人を意味しています。旧約聖書の中では、この章の最初に引用した『血はあなたの命をどのように救うことができますか』の中にも述べられているように、血は命の象徴と見られていました。それ故、「血を流す」という表現は人を殺すことの象徴的表現として聖書全体を通して使われているのです。この表現の中では文字通りの「血」が大事なのではありません。人を殺すのに毒殺でも絞め殺しでも、全て「血を流す」こととして禁じられているのです。

 この象徴的な「血」の意味は、もう一つの掟である肉の食べ方にも当てはまります。9章4節には「その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」、つまり魂が「血」と同等の言葉となっており、それが含まれた肉を食べてはいけないのです。この部分で、ものみの塔の新世界訳聖書では「魂」と訳している言葉は、他の聖書は皆、「命」又は「life」と訳しています。例えば新共同訳では「命である血を含んだまま食べてはならない」、Revised Standard Versionでは”Only you shall not eat flesh with its life, that is, its blood.” 、King James Versionでは”But flesh with the life thereof, which is the blood thereof, shall ye not eat.” 、New International Versionでは”But you must not eat meat that has its lifeblood still in it.”、となっており、ここでも肉にある血は命の象徴としてとして扱われていることがわかります。

 そして、ちょうど9章6節で「血を流す」ことが文字通りの出血を意味するのでなく、命を奪うことを意味するのと同じように、9章4節では文字通りの血液が肉に入っていることが重要なのではなく、「命を含んだ肉」つまり、生きたままの肉を食べることを最も問題としているのです。この「血」を命と解釈する仕方は多くのユダヤ教のモーセ五書の注解書や、聖書の注解書でもとられており、この9章3節の掟は「あなた方は動物の肉は何でも食べてもよいが、命の含まれた肉は食べてはいけない」と解釈しています。命の残っている肉を食べる習慣は古代だけでなく、現在のアフリカの一部でも行われている風習であり、エホバ神はこのノアの契約の中ではこの風習を取り入れることを禁じているのです。

 もし、ものみの塔協会の言うように創世記9章の「血」に関するエホバ神の掟が、文字通りの血液を意味していて、しかもそれが永遠に絶対に守らなければならない掟であるのなら、われわれは皮膚を怪我して出血したり、検査のために採血されるだけで罰せられなければなりませんし、逆に文字通りの血液が流されることが禁じられているのであれば、人を絞め殺しても構わないことになります。また、動物の肉はどんなに瀉血してもその半分位の血液は肉の中に残るため、この掟を文字通りの血液の掟と取れば、実際には肉は食べられないという自己矛盾した掟になってしまうのです。もし本当にエホバ神が文字通りの血液を食べることを禁じようとしたら、全ての肉を食べることを禁じるのが最も簡単でした。しかし、エホバ神は明らかに肉を食べてもよいと言っているのです。そのことはエホバ神が肉の中に含まれるある程度の血液も食べることを許していることを意味するのです。

 この創世記第9章を深く調べてみて分かることは次の通りです。

  1. ノアの契約は永遠に不変の命令ではなく、聖書全体から見ると、新しい契約の中で別の光が与えられている。
  2. ノアの契約は絶対的な命令ではなく、聖書全体の中で見ると多くの例外が設けられている。
  3. 「血」は命の象徴として述べられており、文字通りの「血液」が問題にされているのではない。

 最後にもう一つの重要な点を付け加えましょう。エホバの証人も認める通り、「血液」が「命」の象徴であるのなら、「象徴」そのものが大事なのでしょうか、それとも象徴によって現されている実体、すなわちここでは「命」が大事なのでしょうか。イエスはその死の前に、弟子たちに対して、ぶどう酒をイエスの血として飲みなさいと命じました。ぶどう酒はイエスの血を象徴しますが、それではぶどう酒自体がイエスの血よりも大きな意義を持つのでしょうか。多くの人は結婚の象徴として結婚指輪をしますが、もし強盗が来てその指輪を渡さなければあなたの妻を殺すと言った場合、あなたは象徴である指輪を取ってその象徴の実体である妻を犠牲にするでしょうか。ものみの塔協会が指導していることはまさにこのような本末転倒なのです。エホバの証人は象徴である「血液」そのものを重視する余り、その象徴の実体である命を犠牲にしているのです。

モーセの律法と食事の掟

ものみの塔の見方

 ものみの塔協会出版の『血はあなたの命をどのように救うことができますか』4頁では、モーセの律法の中の「血に関する重大な律法」についてこう述べています。

神は古代イスラエルに律法を与えた時,再び血に言及されました。その法典に含まれる知恵と倫理に敬意を示す人は少なくありませんが,ほとんどの人は血に関するその重大な律法に気づいていません。例えば,このような律法がありました。「イスラエルの家の者あるいは彼らの中に住んでいるよその人のだれであれ,血に幾らかでもあずかるなら,血にあずかっているその人に対してわたしは自分の顔を向け,その人を一族の中から断つであろう。肉の命は血のうちにあるからである」。(レビ記17:10,11,タナック訳)次に神は,狩りをする者が動物の死体をどのように扱うべきかを説明し,「その血は注ぎ出し,それを地で覆う。…‥あなたはいかなる肉の血にもあずかるべきではない。すべての肉の命はその血であるからである。それにあずかる者はだれであれ,断たれる」と言われました。-レビ記17:13,14,タナック訳。(『血はあなたの命をどのように救うことができますか』1990年4頁)

 出エジプト記、レビ記、申命記に書かれているモーセの律法を見るとき、「血」がエホバ神にとって非常に重要なものであったことは明らかです。どのように「血」はエホバとイスラエルの民にとって重要だったのでしょう。血液そのものに何か特別な価値や魔力があったのでしょうか。

レビ記17章

 血はやはり前章のノアの契約と同じように、人間や動物の生命を象徴していました。エホバ神にとって人も動物も、その命が聖なるものであるが故に「血」も聖なるものとされ、従ってそれを食べることが禁じられたのでした。人が動物を殺した場合、その命をエホバから奪った代わりとして、その人はその動物の血を、命の代わりとして、エホバに捧げものとして返すことが義務づけられました。ここでも血は聖なる命の象徴であり、それ故この義務を怠るものは「血の罪がその者に帰せられ」たのでした。レビ記17章3-6節にはこう書かれています。

 3「『「だれでもイスラエルの家の者で,雄牛,若い雄羊,またはやぎを宿営の中でほふり,あるいはそれを宿営の外でほふりながら,4エホバの幕屋の前でエホバへの捧げ物として差し出すためにそれを会見の天幕の入口に携えて来ない者がいれば,血の罪がその者に帰せられる。彼は血を流した。その者は民の中から断たれねばならない。5これは,イスラエルの子らが自分の犠牲を,すなわち彼らが野原で犠牲としてささげるものを携えて来るためである。彼らはそれをエホバのもとへ,会見の天幕の入口の祭司のもとへ携えて来なければならない。彼らはそれをエホバヘの共与の犠牲として犠牲にしなければならない。6そして祭司はその血を,会見の天幕の入口にあるエホバの祭壇の上に振り掛け,また脂肪をエホバヘの安らぎの香りとして焼いて煙にしなければならない。(レビ記17:3-6)

 ここで明らかなように、血は祭壇の上に振り掛け、動物の命と引き替えにエホバに捧げて返されるのでした。このことはこれに続く11節から更にはっきりと述べられています。

10「『だれでもイスラエルの家の者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で,いかなるものであれ血を食へる者がいれば,わたしは必ず自分の顔を,血を食べているその魂に敵して向け,その者を民の中からまさに断つであろう。11肉の魂は血にあるからであり,わたしは,あなた方が自分の魂のために贖罪を行なうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。血が,[その内にある]魂によって贖罪を行なうからである。12それゆえにわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方のうちのいずれの魂も血を食べてはならない。あなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者も血を食べてはいけない」。(レビ記17:10-11)

 ここで魂(命)は血にあり、血によって「魂の贖罪を行う」とはっきり書かれています。この「血による贖罪」の観念は聖書全体を流れる大きなテーマで、後に新約聖書の中のキリストの「血による贖罪」の真の意味を理解する上の鍵となるので覚えてください。さて、ここで「血を食べてはならない」という命令が出てきますが、その前後関係を見てください。何故食べてはならないのでしょう。それは血そのものに何か不思議な魔力や価値があるからではなく、ひとえに生命の神聖さへの畏敬から出ています。たとえ人が肉は食べても動物の命はエホバに属し、それを象徴的に血をエホバに返すことによって、動物の命をエホバに返すからです。もう一つの重要な点は、この食事の掟は、イスラエル人だけでなく、外国人にも適用されることでした。この点は後で新約聖書の中でのこの問題の取り扱いを見る時の鍵になりますので覚えておいて下さい。

 狩猟で捕らえた野獣はどうでしょう。この場合、祭司による祭壇の上の捧げものの儀式をする義務はありませんが、血はやはり地面に注ぎ出して塵で覆わねばなりません。これも血をエホバに返す一つの儀式なのでした。

13「『だれでもイスラエルの子らに属する者あるいはあなた方の中に外国人として住んでいる外人居留者で,食べてよい野獣または鳥を狩猟で捕らえた者がいれば,その者はその血を注ぎ出して塵で覆わねばならない。(レビ記17:13)

 14節では、先に述べた生命の畏敬の故に血を食べてはいけないことが、繰り返し強調されています。

14あらゆる肉なるものの魂はその血であり,魂がその内にあるからである。そのためわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なるものの魂はその血だからである。すべてそれを食べる者は断たれる」。(レビ記17:14)

 それでは自然に死んだり、死んだ状態で見つかった動物を食べる場合はどうなのでしょうか。この場合は血液は正しく注ぎ出されていません。山の中で道に迷い、食糧が尽きたイスラエル人が死んだ動物を見つけその肉を食べることは充分あり得ることです。この件に関して15、16節にはこう書いてあります。

15[すでに]死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれたものを食べる魂がいれば,その地で生まれた者であれ外人居留者であれ,その者は自分の衣を洗い,水を浴びなければならない。その者は夕方までは汚れた者とされる。そののち清くなるのである。16しかし,それを洗わず,その身に水を浴びないのであれば,その者は自分のとがに対して責めを負わねばならない』」。(レビ記17:15,16)

 エホバはこのような動物を食べることは勧めてはいません。しかし、それを食べた者が死に値する罪を犯したとはどこにも書かれていません。この15、16節に見るように一定の清めの儀式を行えば、それで赦されるのです。なぜこのような違いがあるのでしょう。もし、血液を食べること自体が「血の罪」で死に値することであるなら、このような動物を食べた者は同じ様に「断たれる」はずでしょう。ここでも血液そのものが最も重要なのではなく、「命」(魂)が本当の理由であることがわかります。自分で動物を殺して命を奪ったものはエホバに対して「血」の責任があるのに対し、自然に死んだり、誰が殺したか分からない動物に関しては、それを食べるものにその命についての責任はなく、従ってその血を食べても「血の罪」にはならないのです。

 この死んで血液を正しく抜いていない肉をたべることに関しては、実はイスラエル人と外国人とでは規則が異なっています。申命記の14章21節を見てみましょう。

21「あなた方は、何にせよ死んでいるものを食べてはならない。あなたの門の内にいる外人居留者にそれを与えてもよい。その者がそれを食べるのである。あるいは、それは異国の者に売られるかもしれない。あなたは、あなたの神エホバにとって聖なる民なのである。(申命14:21)

 ここで上に解説したレビ記17章10節をもう一度見て下さい。ここでは、はっきりと外国人もイスラエル人も関係なく、全ての人間が血を食べることを禁じられていました。それなのに、すでに死んでおり血液を正しく処理していない動物は外国人が食べることを、エホバは認めています。何故でしょう。ここでも、血液そのものが神聖だからでないことは明らかです。外人はこれを食べても構いませんが、これはやはり彼らがその動物の命を奪った者ではないからです。ここでも血液そのものよりも、それに象徴される「命」が第一にされているからです。イスラエル人がこれを食べていけないのは、血液が神聖であるからではなく、イスラエルの民が「聖なる民」だからなのでした。

モーセの律法は「命を支えるために血を取り入れること」を禁じていますか

 モーセの律法に関して、ものみの塔協会が繰り返し述べることに、「命を支えるために血を取り入れること」という表現が使われます。例えば、上にあげた『血はあなたの命をどのように救うことができますか』4頁の引用のすぐ次ぎに続く段落には次のように書かれています。

 命を支えるために血を取り入れることが創造者によって禁じられていることは,律法の中で繰り返し語られました。「あなたは血を食へてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。それを食へてはならない。それは,あなたとあなたの後の子供たちに関して物事が順調に運ぶためである。あなたは正しいことを行なうことになるからである」-申命記12:23-25,新国際訳;15:23。レビ記7:26,27。エゼキエル33:25。(『血はあなたの命をどのように救うことができますか』1990年4頁)

 この「命を支えるために血を取り入れること」という表現は一体どこから来たのでしょう。聖書にはどこにもこんなことは書かれていません。それではものみの塔はどうして、聖書にないこんな奇妙な表現を使わなければならないのでしょう。その答は輸血という超現代的な行為を聖書の記述と結びつける所にあります。すなわち、現代の輸血という治療行為と、このモーセの律法の「血を食べる」という全くかけ離れた二つの行為を同じ行為であると主張するため、「食べること」イコール「命を支えるために血を取り入れること」イコール「輸血」という無理な論理を押し通す苦肉の手段なのです。

 再び上の『血はあなたの命をどのように救うことができますか』4頁の引用の最初の文章をお読み下さい。「命を支えるために血を取り入れることが創造者によって禁じられていることは,律法の中で繰り返し語られました。」律法の中には「命を支えるために血を取り入れることが創造者によって禁じられていること」はどこにも出てきません。律法の中に出てきて聖書の中に書かれていることは「血を食べる」ことを禁じていることだけです。イスラエル人や外国人が血を食べたとして、それは命を支えるためだったでしょうか。聖書にはどこにもこの血を食べる行為が命を支える行為として禁じられていたとは書かれていません。他にいくらでも食べるものがあった当時のイスラエル人にとって、血を食べることがすなわち「命をささえること」になったとは到底考えられません。このものみの塔の「食べること」イコール「命を支えるために血を取り入れること」というのは、明らかに聖書に書かれたことにものみの塔が、書かれていないことを付け足して作り上げた教義であることがここでわかるのです。

 更に次ぎの段落ではは緊急事態の命を救うために血を食べることが許されるかどうか、を提起して、サムエル第一の引用をあげています。

 今日のある人たちの論じ方とは全く異なりますが,血に関する神の律法は,緊急事態が生じたというだけの理由で無視されるべきものではありません。戦時の危機のさなか,イスラエル人の兵士の中には,動物を殺して「血のままで食べ(た)」者たちがいました。緊急事態であったことを考えると,彼らが血で自分たちの命を支えても差し支えなかったのでしょうか。そうではありません。彼らの指揮官は,兵士たちの取った行動がやはり大きな間違いであることを指摘しました。(サムエル第一14:31-35)したがって,命は貴重なものですが,わたしたちの生命授与者は 緊急事態ならご自分の規準を無視してもかまわない,とは決して言われませんでした。(『血はあなたの命をどのように救うことができますか』1990年4頁)

 ものみの塔はこれが「命を支えるために血を取り入れること」の聖書の記述だとして、これを輸血禁止に当てはめようとします。しかし、腹を空かせた兵隊が動物の肉を食べたことと、現代の輸血による治療とどれだけ平行関係があるのでしょう。これが本当に医学上の緊急事態に当たる状況でしょうか。聖書を読んでみましょう。

31そして、その日、彼らはミクリマシュからアヤロンに至るまでフィリスティア人を討ち倒していった。それで民は非常に疲れた。32そこで民は貪欲にも分捕り物に飛び掛かって、羊や牛や子牛を取り、それを地の上にほふりはじめ、民は血のままで食べだした。(サムエル第一14:31,32)

 戦争に勝って腹を空かせた兵隊が、羽目を外して暴食に走った状況を、現代の救命のために使われる輸血の状況になぞらえるというのは、どういう神経でしょうか。ここでも兵隊が貪欲に肉を食べたことを「彼らが血で自分たちの命を支え」たと表現し、聖書のどこにも書いていないことを勝手に挿入しています。「食べること」イコール「命を支えるために血を取り入れること」の議論を何がなんでも押し通そうとするために、この二つの全く異なった状況を平行させていることは、何よりもものみの塔の苦し紛れと欺瞞を現すものでしょう。

 所でこの貪欲な兵隊たちには、この罪を犯した結果どのような重大な結果が生じたでしょうか。再び聖書を見てみましょう。

33それで,人々はサウルに告げて言った,「ご覧なさい。民は血のままで食べて,エホバに対して罪をおかしています」。そこで彼は言った,「あなた方不実なことをした。何よりもまず、わたしのもとに大きな石を転がして来なさい」。34その後,サウルは言った,「民の中に散って行って,あなた方は言いなさい,『あなた方は各々,自分の牛を,また各々,自分の羊をわたしのそばに連れて来て,ここでほふって食べなさい。あなた方は血のままで食べてエホバに対して罪をおかしてはならない』」。そこで民は皆,その夜,各々自分の手にある牛をそばに連れて来て,そこでほふった。35こうしてサウルはエホバのために祭壇を築いた。これをもって彼はエホバのために祭壇を築くことを始めた。(サムエル第一14:33-35)

 兵隊たちは確かに罪を犯しましたが、その罰はお叱りと戒めの言葉の形で与えられたのでした。今日、エホバの証人が緊急事態のために輸血を受ければ、排斥処分にされます。この点でもどのような平行関係があるというのでしょうか。

わたしたちはモーセの律法のもとにいますか

 しかし、われわれクリスチャンが何よりも忘れてはならないことは、われわれはキリストが与えられた後では、もはやモーセの律法の元にはいないということです。イエス・キリストはモーセの律法の成就でした。

4キリストは律法の終わりであり、こうして、信仰を働かせる者はみな義を得るのです。(ローマ10:4)

23しかしわたしたちは、信仰が到来する前には律法のもとに警護されており、共に拘束されたまま、やかて表し示されることになっていた信仰を望み見いていました。24したがって、律法は、わたしたちをキリストに導く養育係となったのであり、それは、わたしたちが信仰によって義と宣せられるためでした。25しかし信仰が到来した今、わたしたちはもはや養育係のもとにはいません。(ガラテア3:23-25)

 そうです、モーセの律法はイエス・キリストと共に十字架の上で死んだのでした。キリストが人類に与えられた後、更にこの律法による束縛を云々するのは、聖書の教えを否定するものでしょう。

15この方は自分の肉によって敵意を、すなわち[数々の]定めから成るおきての律法を廃棄されました。(エフェソス2:14)

 実際、ものみの塔協会自体、この点は認めています。

もしイエスのユダヤ人の追随者たちが律法ののろいのもとにいなかったのなら、クリスチャンはイスラエルに与えられたすべてのおきてを守らなければならない義務がありましたか。コロサイの人々にたいしてパウロは次のように書きました。「その[神の]ご親切によってわたしたちのすべての罪過を許し、わたしたちを責める手書きの文書を塗り消してくださったのです。それは[数々の]定めから成り、わたしたちに敵対するものでした。そして[神]はそれを苦しみの杭にくぎづけにして取りのけてくださいました。(コロサイ2:13,14)まちがいなく、多くの初期のクリスチャンたちはその考え方を調整して、彼らが律法から解かれたことを認識する必要がありました。(ローマ7:6)(「ものみの塔」1989年11月15日5頁)

 しかしそれでも、ものみの塔協会は自分たちの都合でこのモーセの廃棄されたはずの律法を、目的に会わせて引っ張ってくるのです。

要約

 ここで、この章の要点をまとめてみましょう。

  1. モーセの律法は、血を食べることは禁じてはいるが、それによって「命を支える」ことを禁じている教えはどこにもない。
  2. モーセの律法の元では、人がある状況では間接的に血を食べても構わない場合があった。
  3. 血液は特別な魔力を持つとは考えられていなかった。血液は命を象徴しており、従って動物を殺した場合はその血液は地に注いでエホバに返すことにより、命の贖いになると信じられていた。
  4. モーセの律法はクリスチャンを束縛するものではない。このことは聖書に何回も繰り返されており、ものみの塔協会自体も認識している。

 このモーセの律法に関する第二章を終わる前に、次の第三章の使徒の血液に関するおきてを考慮する上で鍵となる、レビ記の禁則がどのような順番で述べられているかをここで記しておきましょう。

  1. 供与の犠牲(食物の捧げ物)はエホバ神にのみ捧げられなければならない。(レビ記17:1-9)
  2. 意図的に血液を食べてはならない。(レビ記17:10-14)
  3. すでに死んでいたり切り裂かれたりして、正しく血液を処理していない動物は、緊急事態を除いては(申命14:21,28,29)食べてはならない。(レビ記17:15,16)
  4. 性的不品行や近親相姦を行ってはならない。(レビ記18:1-27)

 次の使徒15章を考察する時に重要な意味を持ちますので、その時に参照してみます。

第三章:使徒15章と「使徒の布告」

はじめに

 ここまでの章では、旧約聖書に書かれた血に関する掟を見て来ました。前の章にも述べたように、ものみの塔協会は、われわれがもはやモーセの律法には縛られてはいないことを認めています。それなのにあくまでこの血の掟を絶対の掟として現代のエホバの証人に守らせている理由は、それが新約聖書の中にも繰り返し出てくるからであると主張します。彼らが新約聖書の血の掟を述べたところとして引用するのは使徒15章であり、この内容は21章で繰り返し述べられています。ここでは、この使徒15章の血に関する記載が、本当にエホバの証人の主張するように、人類が永遠に守らなければならない絶対的な掟として書かれているのかどうかを、聖書の全体の文脈の中で詳しく検討してみましょう。

 もし新約聖書に余りなじみがなく、使徒(使徒行伝、使徒言行録、使徒の活動、等の訳が日本語の聖書では使われている)を詳しく読んだことのない方は、この機会にこの書を第一章から一気に通して終わりまで読み、その中で15章がどのような意味を持つかを自分で考えてみてください。なお、聖書はものみの塔の新世界訳だけでなく、口語訳、新共同訳、新改訳、また英語訳なども参照し、微妙な訳語の違いにも注目して下さい。

ものみの塔の解釈の仕方

 まず、聖書の記述を詳細に辿る前に、ものみの塔協会はこの使徒15章に関してどのように教えているかを『血はあなたの命をどのように救うことができますか』5頁の引用から見てみましょう。

 イエスの死後,幾年かが経過し,クリスチャンになった者がイスラエルの律法すべてを守る必要があるかどうかについて問題が起きた時どんな事柄が生じたかに注目してください。その問題は,使徒たちを含むクリスチャンの統治体の会議で討議きれました。イエスの異父兄弟であったヤコブは,ノアとイスラエル国民に対して語られた血に関する命令を含む書き物に言及しました。その命令はクリスチャンに対しても拘束力があるのでしょうか。-使徒15:1-21。

 その会議は下した決定をすへての会衆に送り出しました。クリスチャンはモーセに与えられた律法を守る必要はなく,「偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたもの[血を抜いていない肉]と淫行を避けていること」が「必要」なのです。(使徒15:22-29)使徒たちは単なる儀式的もしくは食事に関する法令を提出していたのではありません。この布告は,倫理に関する基本的な規範を定めたもので,初期クリスチャンはこれに従いました。それから約10年後,彼らは,「偶像に犠牲としてささげられた物,ならびに血……また淫行から身を守っている」べきであることを認めました。-使徒21:25。

 あなたは,非常に大勢の人々が教会に通っていることをご存じでしょう。彼らの大半は,クリスチャンの倫理の中に,偶像に崇拝をささげないこと,ゆゆしい不道徳行為に携わらないことなどが含まれていることにきっと同意するでしょう。しかし注目に値するのは,使徒たちが,血を避けることをそれらの悪を避けることと同じ道徳的な高いレベルに置いていることです。その布告の結びには,「これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」と述へられています。-使徒15:29。(『血はあなたの命をどのように救うことができますか』1990年5頁)

 このものみの塔の論理は、聖書に余りなじみの無い人々にとって、もっともらしく聞こえます。しかしその裏には、ものみの塔の出版物が決してエホバの証人たちに注目させない、多くの聖書の記述があり、それらを意図的に無視してこのような議論を展開します。上の第三段落では、「彼ら(クリスチャン)の大半は,クリスチャンの倫理の中に,偶像に崇拝をささげないこと,ゆゆしい不道徳行為に携わらないことなどが含まれていることにきっと同意するでしょう。しかし注目に値するのは,使徒たちが,血を避けることをそれらの悪を避けることと同じ道徳的な高いレベルに置いていることです」と述べています。しかしそれでは何故エホバの証人以外の全てのクリスチャン、またモーセの律法を今でも堅く守っている正統派のユダヤ教徒でさえ、輸血を受けることが聖書の掟に反することでないと結論しているのか、を明らかにしていません。恐らく、彼らはエホバの証人のみが聖書の真理を理解できるので、彼らのみがこの掟を聖書の中から読み取れると主張するかも知れません。

 この使徒15章を読んで、エホバの証人だけが輸血禁止を読みとり、他のクリスチャンも聖書学者も決してそのようには読みとらない真の理由は何なのでしょう。もし、ものみの塔が、ほとんど大部分の聖書を素直に読みとる人ができないような、とんでも無い曲解を行っているとしたら、それがもっと可能性の高い説明ではないでしょうか。もちろん、ものみの塔はそのような可能性などは、決して信者に提起しません。ここではその可能性を、聖書に基づいて検討してみましょう。

使徒15章の背景

 イエス・キリストの死後、初期のキリスト教会の最大の問題は、ユダヤ教系のキリスト教徒と、非ユダヤ教系の信者との統合問題でした。この非ユダヤ系の信者たちは、大部分の聖書のなかでは「異邦人」(Gentile)と訳されていますが、ものみの塔の新世界訳では「諸国民」(nations)と訳されており(例えば使徒15:23)、ユダヤ人とそれ以外の「異邦人」とが対立していた初期のキリスト教会の問題点が、エホバの証人の訳ではわかりにくくなっています。キリスト教はユダヤ教の中に生まれた新しい宗教であり、イエスもパウロも使徒たちもみな、ユダヤ人でした。しかし、その普遍的な愛の教えはユダヤ人以外のギリシャ人やローマ人たちの「異邦人」の間に急速に広まりました。またパウロも精力的に「異邦人」の間にイエスの教えを広めた結果、初期のキリスト教会にはパリサイ人を含むユダヤ教を信奉していたユダヤ人からキリスト教に転向した人たちと、異邦人のキリスト教徒が混在していたのでした。

 これらのユダヤ人のキリスト教徒は、彼らのユダヤ教徒としての宗教的慣習をすぐに捨て去ることは出来ませんでした。このような人々にとって、全くユダヤ教の宗教的慣習に慣れていない異邦人と、クリスチャンとしての兄弟姉妹としての交わりをもっていくことは、容易ではありませんでした。この問題はパウロの多くの書簡の中に繰り返し取り上げられています。このような背景の中で15章は始まります。

使徒15章の解釈

 15章の中心となるテーマは、異邦人のキリスト教徒がモーセの律法に定められた割礼を受ける必要があるかどうかの議論です。

さて,ある人たちがユダヤから下って来て,「モーセの慣例どおり割礼を受けないかぎり,あなた方は救われない」と兄弟たちに教えはじめた。2しかし彼らを相手に,パウロとバルナバによって少なからぬ争論と議論が起きた時,人々は,パウロとバルナバおよび自分たちのうちのほかの幾人かが,この論争のことでエルサレムにいる使徒や年長者たちのもとに上ることを取り決めた。(使徒15:1,2)

 パウロたちのアンティオキアの会衆にユダヤから下ってきた人たちは、明らかにユダヤ人のクリスチャンで、異邦人のクリスチャンもモーセの律法を引き続き遵法して、割礼を受けなければ救われないと教え始めました。パウロとバルナバ及び他の人々はこれに対し、キリストの教えと異なるものであると異議を唱え、異邦人のクリスチャンはユダヤ人の宗教慣習を守る必要はないと唱えたのでした。エルサレムには当時まだ使徒たちがおり、ユダヤ人のキリスト教徒の中心地でした。この異なる教えを広めに来た人々がユダヤから下って来たことが、エルサレムに行って真相を解明することの直接の理由でした。

3こうして,これらの人たちは途中まで会衆に見送られた後,ずっと進んでフェニキアやサマリアを通り,諸国の人たちの転向のことを詳しく話しては,すべての兄弟たちを大いに喜ばせるのであった。4エルサレムに着くと,彼らは会衆および使徒や年長者たちに親切に迎えられ,神が自分たちを通して行なわれた多くの事柄について細かに話した。5しかし,信者となっていたパリサイ派の人たち幾人かが席から立ち,「彼らに割礼を施し,モーセの律法を守り行なうように言い渡すことが必要だ」と言った。(使徒15:3-5)

 パウロとバルナバは旅の途中で、大勢の異邦人がいかにキリスト教に転向したか(上の新世界訳では「諸国の人たちの転向」と訳されている)を伝えていきました。エルサレムに着くと、彼らは当地のキリスト教徒に温かく迎えられました。しかし、戒律に最も厳密なパリサイ派のユダヤ人からキリスト教徒になった人々は、アンティオキアに下ってきたユダヤ人と異口同音に、異邦人に割礼を受けさせることが必要だ、と言いました。

6そこで使徒や年長者たちは,この件について調べるために集まった。7さて,多くの議論が出てから,ペテロが立って彼らにこう言った。「皆さん,兄弟たち,あなた方がよく知っているとおり,神は早いころからあなた方の間で選びを行ない,わたしの口を通して諸国の人たちが良いたよりの言葉を聞いて信じるようにされました。8そして,[人の]心を知っておられる神は,わたしたちに行なわれたと同じように,彼らにも聖霊を与えて証しをされました。9また,わたしたちと彼らとの間に何の差別も設けず,彼らの心を信仰によって浄められたのです。10それですから,どうして今,父祖もわたしたちも負うことのできなかったくびきを弟子たちの首に課して,神を試したりするのですか。11それどころか,わたしたちも,その人たちと同じように,主イエスの過分のご親切によって救われることを頼みとしているのです」。12すると,一同は沈黙してしまった。そして,バルナバとパウロが,自分たちを通して神が諸国民の間で行なわれた多くのしるしや異兆について話すのを聴くのであった。(使徒15:6-12)

 このパリサイ派キリスト教徒の、異邦人も割礼が必要であるとの主張に対して、使徒ペテロは、神が異邦人(「諸国の人たち」)に伝道するように使徒たちに命じたこと、神は異邦人とユダヤ人をもはや差別しないこと、そして全てのキリスト教徒は、異邦人もユダヤ人も、掟を守ることではなく、「主イエスの過分のご親切」によって救われることを訴えました。この中でペテロはこのユダヤ教の掟を「父祖もわたしたちも負うことのできなかったくびき」と表現していることです。そこにはこの古い掟にもはや本質的な価値を認めていない態度がはっきりと示されています。そしてキリスト教徒の救いは、掟を守る人の努力によって得ることではなく、「主イエスの過分のご親切」、あるいは「主イエスの恵み」(新共同訳)により与えられるのでした。

 次に話したのが、ヤコブでした。ここでシメオンと言っているのはペテロのことです。

13彼らが話し終えてから,ヤコブが答えて言った,「皆さん,兄弟たち,聞いてください。14 シメオンは,神が初めて諸国民に注意を向け,その中からご自分のみ名のための民を取り出された次第を十分に話してくれました。15 そして,預言者たちの言葉はこのことと一致しています。こう書いてあります。16『これらの事の後,わたしは戻って,倒れたダビデの仮小屋を建て直すであろう。その荒れ跡を建て直してそれを再び立てるであろう。17残っている人たちが,すべての国の民,わたしの名によって呼ばれる民と共に,切にエホバを求めるためであると,18昔から知られたこれらの事を行なっておられるエホバが言われる』。(使徒15:13-18)

 このヤコブの言葉を上の『血はあなたの命をどのように救うことができますか』5頁の引用と比較して見て下さい。ものみの塔は「イエスの異父兄弟であったヤコブは,ノアとイスラエル国民に対して語られた血に関する命令を含む書き物に言及しました」と書いていますが、ここにはどこにも「ノアとイスラエル国民に対して語られた血に関する命令を含む書き物」は言及されていません。ヤコブが言及しているのはアモス9章11、12であって、ノアに与えられた血の命令は言及されていないのです。ここでも、ものみの塔の出版物に特有の、聖書に実際には書かれていないことを、あたかも聖書に書いてあるがごとくに表現し、聖書になじみのない人々を信じ込ませる手法が使われています。

19ですから,わたしの決定は,諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず,20ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。21モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです」。(使徒15:19-21)

 ヤコブもまたパウロやペテロと同じように「諸国民から神に転じて来る人々」すなわち異邦人を、ユダヤ教の掟によって拘束すべきではないという考えでした。しかし、異邦人とユダヤ人との当面の緊張関係を緩和するために、彼は最低限の妥協案を提示したのでした。そこでは割礼は必要としない代わりに、最低限として(「ただ」という言葉、英語では instead (NIV), but(NWT, KJV, ASV)、に注目)「偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避ける」ことが提案されました。何故、この四つの事柄だけを取り上げて守らせるようにヤコブは提案したのでしょうか。

 ものみの塔は、上で引用した『血はあなたの命をどのように救うことができますか』の5頁で、「この布告は,倫理に関する基本的な規範を定めたもので,初期クリスチャンはこれに従いました」と述べています。この見方は本当に聖書の記述を正しく反映しているでしょうか。この四つの項目は本当に初期クリスチャンの倫理に関する基本的な規範を定めたものでしょうか。もしそうであれば、なぜ、もっともっと基本的な倫理の規範である、人を殺すな、盗むな、嘘をつくな、というような命令がないのでしょうか。少し注意深く考えてみると、この一見奇妙な取り合わせの四項目には何かそれらを選んだ特別な理由があることに気がつきます。

 その答は次の21節にはっきりと書かれています。この四つの項目が取り上げられた理由は他でもない、「モーセは安息日ごとに諸会堂で朗読されており,彼を宣べ伝える者が古来どの都市にもいるからです」ということでした。この節は、ものみの塔の新世界訳も含め、全ての英語訳で「for」という、直接前の文の理由を示す言葉で始まっています。モーセの律法のこの部分は、古来からユダヤ人の伝統として、安息日ごとに会堂で読み上げられる慣習になっていたのでした。ここでヤコブは、「倫理に関する基本的な規範」などという本質的な理由ではなく、ユダヤ人の古来からの伝統を尊重することにより、ユダヤ人の信者の神経を逆なでしないようにする配慮が理由であることを示しています。このことは、以下の使徒たちが実際に書き送ったこの布告をよく調べて見れば更に確定的に明らかになります。

22そこで,使徒や年長者たち,また全会衆は,自分たちの中から選んだ人々を,パウロおよびバルナバと共にアンティオキアに遣わすことがよいと考えた。すなわち,バルサバと呼ばれるユダとシラスで,兄弟たちの中で指導的な人たちであった。23そして,彼らの手によってこう書き送った。「使徒や年長者の兄弟たちから,アンティオキア,またシリア,キリキアにいる,諸国民からの兄弟たちへ:あいさつを送ります。24わたしたちの中から行ったある人たちが,わたしたちが何の指示も与えなかったにもかかわらず,いろいろなことを言ってあなた方を煩わせ,あなた方の魂をかく乱しようとしていることを聞きましたので,25わたしたちは全員一致のもとに,人を選んで,わたしたちの愛するバルナバおよびパウロ,26わたしたちの主イエス・キリストの名のために自分の魂を引き渡した人たちと共に,あなた方のもとに遣わすことがよいと考えました。27このようなわけで,わたしたちはユダとシラスを派遣しますが,それはまた彼らが同じことを言葉で伝えるためでもあります。28というのは,聖霊とわたしたちとは,次の必要な事柄のほかは,あなた方にそのうえ何の重荷も加えないことがよいと考えたからです。29すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」。(使徒15:22-29)

 ここで注目して頂きたいのは29節です、そこでは1)偶像に犠牲としてささげられた物、2)血、3)絞め殺されたもの、4)淫行、の四項目を避けることを「必要」としています。一体この四項目はどこから出てきたのでしょう。それは上にヤコブが述べたように、安息日ごとに会堂で朗読されるモーセの律法から出ているのです。ここで、読者の方は前の「モーセの律法と食事の掟」の章を簡単に復習して下さい。その章の一番最後で、レビ記の17、18章に記されている掟を順番に箇条書きにしました。

  1. 供与の犠牲(食物の捧げ物)はエホバ神にのみ捧げられなければならない。(レビ記17:1-9)
  2. 意図的に血液を食べてはならない。(レビ記17:10-14)
  3. すでに死んでいたり切り裂かれたりして、正しく血液を処理していない動物は、緊急事態を除いては(申命14:21,28,29)食べてはならない。(レビ記17:15,16)
  4. 性的不品行や近親相姦を行ってはならない。(レビ記18:1-27)

 前の「モーセの律法と食事の掟」の章に書きましたように、これらの四つの掟はレビ記の17、18章で、異邦人(外国人居留者)もユダヤ人(イスラエル人)も共に拘束される掟としてはっきりと書かれており、これは安息日ごとに会堂で朗読されたのでした。これに対して割礼は異邦人には必要とされておらず、従って割礼の代わりとして、モーセの律法の中で異邦人が守らなければならないこれらの四つの掟が取り上げられたのです。この使徒たちの布告の手紙が、このレビ記のこの部分に言及していることは、1)偶像に犠牲としてささげられた物、2)血、3)絞め殺されたもの、4)淫行、の四項目の順番を正確に守っているところからも明らかです。(絞め殺された動物は、ユダヤ教徒の間では瀉血が行われていないため、すでに死んで瀉血の処理がされていない動物の典型として避けられていました)。

 使徒たちがその布告のなかで言及したのは、レビ記で異邦人も守ることを要求されている、四項目を取り上げたのに過ぎませんでした。そこには、ものみの塔の主張するような「倫理に関する基本的な規範を定めた」ような普遍的な教えは意図されていません。むしろ、そこにあるのは「古来どの都市でも行われている、安息日ごとの習慣」に則って、異邦人として最低限要求されていることを守っていれば、ユダヤ人の信者たちとうまくつき合っていけるでしょう、という妥協の態度でしかありません。

使徒21章

 上記の使徒15章の「使徒の布告」は一見すべてを円満に解決できるように見えましたが、このユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との対立問題は、そう簡単には解決しませんでした。この15章の後、約十年後に再びエルサレムに戻ったパウロを待っていたのは、相も変わらずの、律法に対して熱心なユダヤ人強硬派のキリスト教徒の、パウロに対する根強い反感でした。ヤコブはパウロにこう説明しています。

20それを聞くと,彼らは神の栄光をたたえはじめ,それから[パウロ]にこう言った。「兄弟,あなたが見るとおり,ユダヤ人の中には幾万もの信者がいます。そして彼らはみな律法に対して熱心です。21しかし,彼らはあなたについて,あなたが諸国民の中にいるすべてのユダヤ人に対してモーセからの背教を説き,子供に割礼を施すことも,[厳粛な]習慣にしたがって歩むこともしないように告げている,とのうわさを聞いています。(使徒21:20,21)

 ここでは、15章の「使徒の布告」では直接触れられていない、異邦人の間に住むユダヤ人が割礼をすることが必要かが問題にされています。パウロもヤコブも、クリスチャンが肉の割礼がもはや意味のないことは知っています(ガラテヤ5:2-3)。しかし、ヤコブはここでも、パウロがユダヤ人の宗教的慣習を無視することで、それ以上の軋轢を深めることがないように考慮しています。そして、ヤコブはそのために二つの事柄をパウロに述べています。

22それで,この点をどうすべきでしょうか。いずれにしても彼らは,あなたが到着したことを聞くでしょう。23ですから,わたしたちが告げるこのことをしてください。わたしたちのところには誓約を立てた四人の人がいます。24この人たちを連れて行って一緒に儀式上の清めをし,その費用の世話を見て,彼らが頭をそってもらえるようにしてやりなさい。こうすればだれもが,あなたについて聞かされているうわさには何の[根拠]もなく,あなたが秩序正しく歩んで自らも律法を守っていることを知るでしょう。(使徒21:22-24)

 第一は、パウロがユダヤ人の宗教慣習であった、ナジル人としての誓約(民数6:2-21)を立てた四人の人を助けてやることにより、パウロがユダヤ人の宗教慣習を忠実に守る人間であることを示すことでした。ここでは、パウロもヤコブもこの宗教儀式の本質が大事なのでなく、ユダヤ人の信者の反感を緩和することを目的としていることは、この言葉づかいから明らかです。

25諸国民の信者たちについては,偶像に犠牲としてささげられた物,ならびに血と絞め殺されたもの,また淫行から身を守っているべきであるとの決定を下して,使いの者を送ってあるのです」。(使徒21:25)

 そして第二は、その十年前にすでに出されていた「使徒の布告」でした。ここで、例の四項目の避けるべき事柄が繰り返して言及されています。ヤコブがこのように、ナジル人としての誓約を立てる儀式と並列して、この四項目を取り上げているところからも、彼がこの四項目をユダヤ人の信者の反感を緩和することを目的として使っていることがわかるのです。

26そこでパウロは,次の日にその人たちを連れて行って一緒に儀式上の清めをし,それから神殿に入った。彼らひとりひとりのために捧げ物をささげるべき[日]までに満たすべき,儀式上の清めの期間を通知するためであった。(使徒21:26)

 パウロはこのヤコブの忠告に従って、翌日、ユダヤ教の宗教儀式に参加したのでした。ここでのパウロの態度もまた、これらの儀式や布告が、律法に従うことが必要であったから行われたのではなく、異邦人とユダヤ人との間の軋轢の緩和が一貫したパウロの目標であったことを如実に示しているのです。

「使徒の布告」は絶対的な拘束力を持つ規範だったでしょうか。

 以上見てきたように、「使徒の布告」の四項目の避けなければならない事柄は、確かにユダヤ人の異邦人に対する反感の緩和の対策として出されたことを見てきました。それでは、これらの四項目はたとえそのような状況で出されたものにせよ、それでも、ものみの塔の主張するように「絶対的な拘束力を持つ規範」だったのでしょうか。必ずしもそうではないことが、他の聖書の記述を見てみるとわかります。

 先ず、偶像に犠牲としてささげられた物は絶対に食べてはいけなかったのでしょうか。これに関してパウロはコリント第一8章で次のように教えています。

4さて、偶像にささげられた食物を食べることについてですが、わたしたちは、偶像が世にあって無きに等しいものであること、また、神はただひとりのほかにはいないことを知っています。5多くの「神」や多くの「主」がいるとおり、天にであれ地にであれ「神」と呼ばれる者たちがいるとしても、6わたしたちには父なるただひとりの神がおられ、この方からすべてのものが出ており、わたしたちはこの方のためにあるのです。また、ひとりの主、イエス・キリストがおられ、この方を通してすべてのものがあり、わたしたちもこの方を通してあるのです。7しかしながら、すべての人にこの知識があるわけではありません。ある人々にはこれまで偶像に慣れてきたので、偶像に対する犠牲の捧げ物として食物を食べ、こうして彼らの良心は弱いために汚されます。8しかし、食物がわたしたちを神に推奨するのではありません。食べなくても後れをとるわけではなく、食べたからといって誉れになるわけでもありません。(コリント第一8:4-8)

 またローマの14章でパウロは、食べるか食べないかの行為が重要なのではなく、食べる者も食べない者もその行為によって裁いたり、躓きになってはならないと書いています。

1信仰に弱いところのある人を迎え入れなさい。しかしそれは、[人の]内心の疑問にっついて決定するためではありません。2ある人は何でも食べてよいとの信仰を持っているのに対し、弱い人は野菜を食べます。食べる者は食べない者を見下げてはならず、食べない者は食べる者を裁いてはなりません。神がその人を迎え入れられたのです。(ローマ14:1,2)

 さらにコリント第一10章にも、肉市場で売られている肉は、何でも食べてもよいし、不信者が出した食べ物、それは当然ユダヤ人の肉の処理法に則って処理されていませんから、血液が含まれる可能性があるわけですが、それでもパウロは「何でも自分の前に出される物を食べなさい」と教えています。

25何でも肉市場で売っているものは、あなた方の良心のために、何も尋ねないで今後も食べなさい。26「地とそれに満ちるものとはエホバのもの」だからです。27不信者のだれかがあなた方を招き、あなた方が行きたいと思った場合、自分の良心のために、何も尋ねることなく、何でも自分の前に出される物を食べなさい。28しかし、もしもだれかが、「これは犠牲としてささげられたものです」とあなた方に言うなら、そのことを明かした人のために、また良心のために、それを食べてはなりません。(コリント第一10:25-28)

 ここでも28節で明らかに述べられているように、食べていけない状況は、それがそのことを気にする人(それはユダヤ人を指していますが)の気持ちを害する場合であることがわかります。

 素直にこれらのパウロの言葉を読むものは誰でも、パウロが偶像に捧げられた物や、血を含む肉を何が何でも食べてはいけないと主張してはいないことを明らかに読みとることができます。ものみの塔も、この明らかな矛盾、(それは聖書の中の矛盾でなく、彼らの教義と聖書のパウロの言葉の矛盾ですが)を無視し続けるわけには行かなかったようです。1978年10月15日(英文版)のものみの塔の「読者からの質問」の欄で、この問題をとりあげています。(以下の引用は英文版のものみの塔からの筆者による和訳です。)

読者からの質問

ある人たちが使徒15:28、29とコリント第一8章を比較して結論しているように、使徒パウロは偶像に捧げられた物を食べることに関して、一世紀当時の統治体と一致していなかったのでしょうか。

 もちろん、ものみの塔は「一致していない」と答えるわけにはいきませんが、他方でこの疑問を放置しておいて、一般のエホバの証人に自発的に聖書を深く考えることを誘導する結果になっても困ります。そこで、彼らはこの読者からの質問の欄を使って、何とかつじつまをあわせる工夫をしました。彼らの答は次のように始まります。

いいえ、証拠はパウロが使徒や年長者の布告に完全に一致していたことを証明しています。

 この欄では、パウロが必ずしも使徒の布告を絶対的に守らなければならないとは考えていなかったという、他の聖書注解者の見方を「危険で、霊感を受けた神の言葉に反する」と真っ向から否定した上で、次のような不可解な説明を与えています。

使徒15:28、29の使徒の布告が禁止しているのは、クリスチャンが正式な宗教儀式にその一部として参加したり、偶像崇拝の行為を行うことです。偶像に動物を犠牲として捧げた者はその肉の一部を食べました。そのような行為は明らかに宗教行為で、異教の神と食事を共にすることであると考えられていました(出エジプト34:15;申命32:17;コリント第一10:18-21)。クリスチャンは絶対にそのようなことはできませんでした。クリスチャンの統治体の布告はこのことを禁止したのであり、これはパウロと完全に一致していました。パウロは「ですから、わたしの愛する人たち、偶像崇拝から逃げ去りなさい」と書いています。-コリント第一10:14;テサロニケ第一1:9。

ですから、パウロはコリント第一8章、10章、やローマ14章を書いている中で、イスラエル人が昔行って神の怒りをかった偶像崇拝の行為や偶像をたたえる宴会に参加して食べることを許しているのではありません(民数25:1-4;啓示2:14)。そうではなくて、彼は偶像の神殿から持ってきて一般の公の場で売られている肉を、ただ単に普通の食事として食べることを扱っているのです。

 これは非常に不可解な解釈です。というのも聖書のこれらのどこの箇所を読んでも、使徒15:28、29の使徒の布告が「クリスチャンが正式な宗教儀式にその一部として参加したり、偶像崇拝の行為を行うこと」を禁止しているという、ものみの塔の説明を直接示す記述はどこにもないからです。「偶像に動物を犠牲として捧げた者はその肉の一部を食べました」と述べ、犠牲として捧げたものは宗教儀式に参加したことになるが、コリント第一8:4で言われるただ捧げられたものを食べることは許されるという解釈です。しかしこれは、本当に聖書に基づいた解釈でしょうか。ギリシャ語の原典を「王国行間逐語訳聖書」で使徒15:28、29の「偶像に犠牲としてささげられた物」とコリント第一8:4の「偶像にささげられた食物」のギリシャ語を見てみましょう。これらの箇所では全く同一のギリシャ語「eidolothuton」という言葉が使われており、これらの二つの表現が同一のギリシャ語で表わされていることをしめしています。「eidolothuton」というギリシャ語はストロング番号1494の単語で、ストロングによる単語の定義は「(meat, thing that is) offered (in sacrifice, sacrificed) to (unto) idols」です。ちなみに、英語圏で広く使われているNIV訳聖書では使徒15:29もコリント第一8:4も共に「food sacrificed to idol」と訳してこの二つを全く区別していません。

 上に引用したものみの塔の説明は、自分たちの元々聖書に基づかない使徒15:29の解釈を何とか正当化し、それと矛盾する聖書の箇所を彼らの使徒15:29の曲解にあわせるために、全く同じ聖書の単語を、自分たちの都合にあわせた異なった意味に勝手に解釈を変えているのです。このことは、ものみの塔の常套手段である、明らかに聖書には書かれていないことを憶測に基づいて作り上げる手口の、一つの良い例でしょう。

 もう一つのエホバの証人が避けて通る使徒15:29の言葉の解釈に「避けている」という言葉があります。この血を「避けている」という表現が本当に、ものみの塔が主張するように絶対的に、永久に全ての人類が守らなければならない命令を表現しているのでしょうか。この「避けている」のギリシャ語は「apechomai」という言葉で、ストロング番号567の単語で、ストロングの定義は「to hold oneself off」となっています。この言葉がどのような意味で使われているかを他の聖書の箇所で見てみると、その本当の意味合いが明らかになるでしょう。例えば次のペテロ第一2:11の表現を見てみましょう。

11愛する者たちよ、外国人また一時的居留者であるあなた方に勧めますが、つねに肉の欲望を避けなさい。そうした[欲望]こそ、魂に対して闘いつづけるものなのです。(ペテロ第一2:11)

 この「避けなさい」は使徒15:29と同じ「apechomai」が使われています。それではここでペテロは肉の欲望を絶対的に、永久的に禁じる命令を述べているのでしょうか。聖書全体を見ればこの解釈は聖書のメッセージとあわないことは明らかでしょう。肉の欲望には寝ることも、食べることも、飲むことも、全てが含まれますが、聖書はそのような絶対的な禁欲主義を教えてはいません。ペテロが全ての肉の欲望を網羅的、絶対的に禁じてはいないことは明らかでしょう。この「apechomai」という言葉は強い勧告の言葉であり、その実施には柔軟性がふくまれており、絶対的な命令を意味してはいないのです。

ものみの塔以外の聖書注解者の見方

 上に述べた、ものみの塔の使徒15章の解釈、すなわち、「この四つの禁則は倫理に関する基本的な規範を定めたものである」、という解釈は他の聖書注解者たちによって支持されているでしょうか。ここでは幾つかの著名な聖書注解者の見解を紹介しましょう。しかし、最も興味あるのは、ものみの塔の宗教の創始者であるラッセルがこの部分をどう解釈していたかです。ラッセルの時代には、まだ今の血の教義はできていませんでしたので、ラッセルは今のような血の教義に辻つまを合わせてこの部分を読む必要はありませんでした。そのような先入観のないラッセルがこの部分をどう解釈しているかを1887年のものみの塔誌の記事から見てみましょう。

この答は、四つの項目を除いてその律法を無視するものでした。そしてこれらの四つのうち最初の三つまでが、それまでユダヤ人であった人たちと、それまで異邦人であった人たちとの共通の交わりの基礎となるように述べられていることは明らかです。その三つとは、(1)偶像に犠牲として捧げられた肉から避けること、(2)ユダヤ人の方法によって殺されていない動物を食べることを避けること、(3)血を食べることを避けること、でした。ユダヤ人として育てられた人々にとってこれらの三項目を無視することは不可能に近いことだったでしょう。そして異邦人の改宗者がこれらを守らなければ、そのことは常に彼らの社会的な障壁となったことでしょう。ここに推奨されている事柄は、ユダヤ人から構成される(統治)「体」と、異なった教育と感情を持つ異邦人とが交わりを続けて行く上で必要だったのです。同じ考えは血の使用の禁止にもありました。ユダヤ人にとってはこれは禁じられたものであり、彼の契約によればそれは生命の象徴でした。それに与ることは、奪った生命に対する責任を負うことを意味するのでした。異邦人は律法の契約の元にいなかったために、このような禁令は異邦人には全く当てはまりませんでした。しかしこの事柄に関する限り、それはユダヤ人の考えに余りにも深く根付いていたために、異邦人がこの事柄を守ることは教会の平和にとって必要なことだったのです。(「ものみの塔」誌1887年5月15日、復刻版2158頁、英文よりの筆者訳)

 このラッセルの使徒15章の解釈の仕方は、まさしく現在の大部分の聖書注解者のとる見方と同じであり、現在のものみの塔が真っ向から否定する解釈なのです。次に幾つかの、英文のよく読まれている聖書注解書がこの部分をどのように解説しているかを見てみましょう。

この使徒の布告の出された状況は、キリスト教への異邦人転向者が割礼の儀式に服し、その他のモーセの律法に合わせることが必要とされるかという疑問を解決することであった、ということを認識すべきです。この会議はそのような律法を守ることは、救いに必要とはされないと決めました。しかし同時に、ユダヤ人のクリスチャンや、クリスチャンに転向することを考えているユダヤ人に不必要な侮辱を与えないために、会議は異邦人の改宗者に対し、一定の思慮深い譲歩を要請したのでした。それは厳格なユダヤ人たちを侮辱することになり、主の晩餐に共に参加するような社会的交流の妨げとなるような幾つかの行為から避けることだったのです。(ブルース・M・メツガー:A Textual Commentary on the Greek New Testament, 1971/75, London: United Bible Societies, p. 430、筆者の日本語訳)

しかしここに一つの問題が残りました。大部分の教会では異邦人の信者はユダヤ人の信者と並んで生活していかなければなりませんでしたが、ユダヤ人の信者は異邦人との交際をできるだけ避けて様々な食物の律法を守るように育てられてきたからです。異邦人が儀式的な掟に従わなくてもよいということに関してはすでに疑問の余地はありませんでしたが、生まれながらのユダヤ人の「弱い兄弟」たちのことを考慮して行動することが異邦人が無難にやっていく上に必要でした。これらのユダヤ人は、全てが食事の掟に関してペテロやパウロのような解放的な見方をとることは期待できなかったのでした。そこでヤコブは異邦人クリスチャンの自由を損なうことなく、ユダヤ人兄弟の掟を尊重するために、偶像との関係ある肉と血を適切に抜いていない肉を避けること、そして異邦人が慣れている異教の低い性道徳の代わりにユダヤ教の高い性道徳に従うことを、異邦人に要請する思慮深い提案をしたのでした。この提案は、生まれながらのユダヤ人と生まれながらの異邦人のクリスチャンたちの間の、社会的、食事的な交際関係を円滑にする進路だったのです。(F.F.ブルース: Commentary on the Book of the Acts, 1962, Grand Rapids, Mi: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., p. 311、筆者の日本語訳)

[20節]「ただ...書き送ることです」:この節が19節の「煩わす」と対照させていること、10-11節の内容が19節で繰り返されていることは、この「布告」が命令ではなく、むしろ妥協であることを示している。これは新参者たちに特別の重荷を負わせることなく、共通の生活と食卓とを可能にするものであった。この四つの条項(28節、21章25節も参照)はレビ記17、18章でイスラエルに住む外国人に規定されている四つの事柄と一致しているようである。すなわち偶像に捧げられた肉、血と、絞め殺された動物(儀式に則って屠殺されていない)を食べること、そして近親者との性関係であった。(リチャードJ.ディロン:The New Jerome Biblical Commentary, 1990, Englewood Cliffs, NJ: Prentice Hall, p. 752 )

結論

 以上の聖書に基づいた使徒15章の解釈から、次の結論が出せるでしょう。確かに、エルサレムの会衆は1)偶像に犠牲としてささげられた物、2)血、3)絞め殺されたもの、4)淫行、の四項目を避けるように勧めましたが、それはエホバの証人が主張するような、倫理に関する基本的な規範を定める目的ではありませんでした。それらの行為がユダヤ人にとって伝統的に忌み嫌われる事柄であったために、異邦人とユダヤ人との間のそれ以上の軋轢を避け、全く異なる宗教・文化背景を持った二つのクリスチャンのグループが、円滑な兄弟の交わりを持てるようになることが目的であったのです。

 この勧告が絶対的な命令ではなかった証拠として、パウロは後に、偶像に捧げられた肉も、不信者が調理した血の含まれる肉も、場合によっては良心の呵責なく食べて構わないと言っているのです。

第四章:新しい契約の元における「血」の意義

イエス・キリストの血に対する態度

 イエス・キリスト自身は聖書の中で血を食べることに関しては、直接何の言及もしていません。そのこと自体、この血の教えがキリスト教の中核となる教えではないことを示しています。しかし、幾つかのイエス・キリストの言葉と態度の中に、彼の血に対する見方を推測させるものがあります。先ず、イエスが口から入る食物一般に関して何と言ったでしょうか。マルコの7章15節から見てみましょう。

15外から入って行ってその人を汚すことのできるものは何もありません。人から出て来るものが人を汚すのです」。17さて,[イエス]が群衆から離れてある家に入られると,弟子たちがこの例えについて彼に質問しはじめた。18それで[イエス]はこう言われた。「あなた方も彼らのように悟る力がないのですか。外から入って行くものは何一つとしてその人を汚すことができないことに気づいていないのですか。19それは,[その人の]心の中にではなく,腸の中に入って行き,それから下水に出て行くからです」。こうして[イエス]はすべての食物を清いとされたのである。20さらにこう言われた。「人から出て来るものが人を汚すのです。21内側から,つまり人の心から,害になる推論が出て来るのです。すなわち,淫行・盗み・殺人・22姦淫・貪り・邪悪な行為・欺まん・みだらな行ない・ねたむ目・冒とく・ごう慢・理不尽さです。23これら邪悪な事柄はみな中から出て来て,人を汚します」。(マルコ7:15-23)

 すべての食物を清いとされたイエスが、血液だけはあなたを汚すと言ったでしょうか。

 次の血液に関するモーセの律法を破った女性に対するイエス・キリストの態度に注目してみましょう。

25ところで,十二年のあいだ血の流出を患っている女がいた。26彼女は多くの医者にかかってはいろいろな苦痛に遭わされ,自分の資産をすべて使い果たしたのに益を受けることもなく,むしろよけいに悪くなっていた。27イエスのことを聞いた彼女は,群衆の中でその後ろから来て,彼の外衣に触った。28「あの方の外衣にただ触るだけで,わたしはよくなる」と言いっづけていたのである。29すると,彼女の血の元はすぐに乾き,彼女はその悲痛な病気がいやされたことを体で感じ取った。30またイエスも,力が自分から出て行ったことをご自身のうちですぐに認め,群衆の中で振り返って,「だれがわたしの外衣に触りましたか」と言いだされた。31ところが弟子たちは,「群衆が押し迫って来るのを見ておられますのに,『だれが触ったか』と言われるのですか」と言いだした。32しかし[イエス]は,そのようにした者を見ようとして周囲を見回しておられた。33いっぽう女は,自分の身に起きた事を知り,恐れとおののきのうちにやって来て,彼の前にひれ伏し,すべてのことをありのままに話した。34[イエス]は彼女に言われた,「娘よ,あなたの信仰があなたをよくならせました。平安のうちに行きなさい。そして,あなたの悲痛な病気から解かれて健やかに過ごしなさい」。(マルコ5:25-34)

 この女性のやったことを、レビ記15:25-30に書いてあるモーセの律法と比較してみて下さい。これに関する罰則は、レビ記17:15、16と比較してみればわかる通り、血を適切に抜いていない肉を食べる、つまり血を食べることと、ほとんど同じでした。イエスはもちろん、この儀式的な律法を守るべきユダヤ人としてユダヤ人の社会の中に行動していたのですが、それでもこのような女性の場合、より柔軟に律法を適用すべきであり、何よりも「信仰」が盲従的に律法を守ることよりも重要であることを示されたのです。

 イエスはこの女性に対して戒めとして、律法を守り続けなさいと言い渡したでしょうか。イエスはただ「娘よ,あなたの信仰があなたをよくならせました。平安のうちに行きなさい。そして,あなたの悲痛な病気から解かれて健やかに過ごしなさい」と言っただけです。この一つの事例の中からだけでも、われわれはイエスの基本的態度を多く学ぶことができます。このイエスが、「血を食べることだけは例外で、どんなことがあっても血を食べない律法だけは永久に守り続けなければいけない」と言ったでしょうか。

 イエスのこの律法を柔軟に適用する態度は聖書の随所に見られますが、次の安息日に関するイエスの態度は、それを包括的に象徴するものでしょう。

9その場所を去ってから,[イエス]は人々の会堂に入られた。10すると,見よ,片手のなえた人がいた。それで彼らは,「安息日に[病気を]治すことは許されるだろうか」と[イエス]に尋ねた。彼を訴える理由を得ようとしてであった。11[イエス]は彼らに言われた,「あなた方のうち,一匹の羊を持っていて,それが安息日に穴に落ち込んだ場合,それをつかんで引き出さない人がいるでしょうか。12どう考えても,人は羊よりずっと価値のあるものではありませんか。それで,安息日にりっぱなことをするのは許されているのです」。(マタイ12:9-12)

 イエスの当時のユダヤの律法では安息日にどのような形であれ、仕事をすることは禁じられていました。実際、聖書の中には安息日の掟を破って死の処刑を受けた事例が記録されています(出エジプト35:2;民数15:32-36。ただし聖書には血の掟を破って死の処刑を受けた事例は記録されていません。)。しかしイエスは安息日に多くの病める人たちを奇跡により癒しました。イエスは自分が死刑になるほどの重大な罪を犯してでも、人を助ける愛の行為を優先したのでした。穴に落ちた羊のたとえは、このイエスの態度を端的に表現しています。ここにイエスは、愛が、書かれた律法を超越することを、たとえ話を通して教えているのです。命が危険にさらされている時、それはたとえ動物の命であっても、律法の規定は柔軟に運用されなければならないのです。このイエスの態度が、たとえ命を殺してでも血の律法を守り続ける、エホバの証人の態度と一致するものなのでしょうか。

自分の血を飲むことを教えるイエス・キリスト

 イエスが血を食べることを、別の角度から論じているところが聖書の中に幾つか出てきます。イエスは、処刑を前にした最後の晩餐で、象徴的な自分の血を飲むことを弟子たちに命じています。

26彼らが食事を続けていると,イエスはパンを取り,祝とうを述べてからそれを割き,弟子たちに与えて,こう言われた。「取って,食べなさい。これはわたしの体を表わしています」。27また,杯を取り,感謝をささげてからそれを彼らに与え,こう言われた。「あなた方はみな,それから飲みなさい。28これはわたしの『契約の血』を表わしており,それは,罪の許しのため,多くの人のために注ぎ出されることになっているのです。(マタイ26:26-28)

 イエスはまた、カペルナウムで群衆に向かってこう言っています。

52そのため,ユダヤ人たちは,「どうしてこの人は,自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに争いはじめた。53そこでイエスは彼らに言われた,「きわめて真実にあなた方に言いますが,人の子の肉を食べず,その血を飲まないかぎり,あなた方は自分のうちに命を持てません。54わたしの肉を食し,わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち,わたしはその人を終わりの日に復活させるでしょう。55わたしの肉は真の食物であり,わたしの血は真の飲み物なのです。56わたしの肉を食し,わたしの血を飲む者は,ずっとわたしと結びついているのであり,わたしもその者と結びついています。57生ける父がわたしをお遣わしになり,わたしが父によって生きているのと同じように,わたしを食する者,その者もまたわたしによって生きるのです。58これは天から下って来たパンです。それは,あなた方の父祖が食べてもなお死んだようなものではありません。このパンを食する者は永久に生きるのです」。(ヨハネ6:52-58)

 「54わたしの肉を食し,わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち,わたしはその人を終わりの日に復活させるでしょう。」この言葉は、血を食べることの禁制をよく知っているユダヤ人にとっては、間違いなく肝を抜く発言だったのでしょう。次の60節で大勢の追随者が、こんな話には従っていけない、と言ってイエスについていくのをやめたのも理解出来ます(66節)。それでは何故、イエスはこのような肝を抜くようなことを追随者たちに言ったのでしょうか。その理解の鍵は、上に引用したマタイ26:28の言葉、「わたしの『契約の血』」にあります。

「古い契約の血」と「新しい契約の血」

 ノアの契約、モーセの律法で解説したように、古い契約では、動物も人も、その命は血液によって象徴され、血液をエホバに返す儀式により、死んだ命の贖いが得られることになっていました。血が動物や人間の命を意味するが故に、それはエホバに属し、人間が勝手に乱用したり食べたりしてはならなかったのです。命が神聖であるが故に血も神聖だったのです。

 これに対し、新しい契約ではイエスが血を流し、彼のこの地上での命を犠牲として捧げたことにより、全人類の命を救うことになりました。すなわち新しい契約ではイエスの血は全人類の永遠の命の象徴であり、それは古い契約のように儀式的にエホバに捧げられて終わるものではなく、全ての人の中に取り入れられて生き続けるものになったのです。これが「新しい契約の血」の意味なのです。それ故、イエスは「わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち」と言ったのです。そこにあるイエスの態度は、もはや物理的、物質的な血を飲むことを禁じる古い契約を乗り越えて、象徴的な血を飲むことを命じる新しい契約の出発を知らせているのでした。

 この点はヘブライ9章で、詳しく解説されています。先ず、古い契約の元では血がどのように神聖な儀式に関与していたかを述べた後、「これらは肉に関する法的な要求であって、物事を正すための定められた時まで課せられているのです(10節)」と述べ、キリストが来るまでの一時的な取り決めであることを示しています。それに続き11節からは、キリストの血が、古い契約と対照的に新しい契約でどのように人を神聖なものとするかを述べています。

11しかし,キリストは,すでに実現した良い事柄の大祭司として来た時,手で造ったのではない,すなわち,この創造界のものではない,より偉大で,より完全な天幕を通り,12そうです,やぎや若い雄牛の血ではなく,ご自身の血を携え,ただ一度かぎり聖なる場所に入り,[わたしたちのために]永遠の救出を得てくださったのです。13汚れた人たちに振り掛けられた,やぎや雄牛の血また若い雌牛の灰が,肉の清さという点で聖化をもたらすのであれば,14まして,永遠の霊により,きずのないすがたで自分を神にささげたキリストの血は,わたしたちの良心を死んだ業から清めて,生ける神に神聖な奉仕をささげられるようにしてくださるのではないでしょうか。15こうして[キリスト]は新しい契約の仲介者なのです。それは,以前の契約下での違犯から贖いによって釈放するための死が遂げられたことに基づいて,召された者たちが永遠の相続財産の約束を受けられるようにするためです。(ヘブライ9:11-15)

 そして9:16-22では血の神聖さと血の犠牲による赦しの重要性を強調しています。20節の「契約の血」に注目して下さい。

16契約のなされるところには,契約締結人の死が備えられねばならないのです。17契約は死んだ[いけにえ]の上に立って有効なのであり,契約締結人が生きている間は効力を持たないからです。18それゆえ,以前の[契約]も血なしに発効したのではありません。19律法にしたがってすべてのおきてを民全体に語った後,モーセは,若い雄牛とやぎの血,それに水と緋色の羊毛とヒソプを取り,書そのものと民全体とに振り掛けて,20「これは,神が務めとしてあなた方に課した契約の血である」と言ったのです。21それから彼は,天幕と公の奉仕のためのすべての器に同じように血を振り掛けました。22そうです,律法によれば,ほとんどすべてのものが血をもって清められ,血が注ぎ出されなければ,許しはなされないのです。(ヘブライ9:16-22)

 次の部分ではこれと対照的に、いかにキリストのただ一度の血の犠牲が人類の罪を清めるかを述べています。

23それゆえ,天にあるものを模型的に表現したものはこのような手段で清められ,天のものそれ自体は,そのような犠牲より勝った犠牲をもって[清められる]ことが必要でした。24キリストは,実体の写しである,手で造った聖なる場所にではなく,天そのものに入られたのであり,今やわたしたちのために神ご自身の前に出てくださるのです。25それはまた,大祭司が自分のではない血を携えて年ごとに聖なる場所へ入るように,何度もご自身をささげるためでもありません。26そうでなければ,世の基が置かれて以来何度も苦しみを受けなければならなかったでしょう。しかし今,ご自分の犠牲によって罪を取りのけるため,事物の諸体制の終結のときに,ただ一度かぎりご自身を現わされたのです。27そして,人がただ一度かぎり死に,そののち裁き[を受けること]が定め置かれているように,28キリストもまた,多くの人の罪を負うため,ただ一度かぎりささげられました。そして,彼が二度目に現われるのは罪のことを離れてであり,それは,[自分の]救いを求めて切に彼を待ち望む者たちに対してです。(ヘブライ9:23-28)

 これらの聖書の記述から、われわれが真剣に考えなければならないのは、イエス・キリストによる新しい契約が人類に与えられ、イエスの一度だけの象徴的な血の犠牲によって人類の罪が許され、永遠の命が与えられるようになった後で、どれだけ古い契約の物質的な血が重要な意味を持つのかという問いなのです。

 たとえて言えば、「手形」(血)という物質は「命」というものを買い取る「代価」でした。「命」という実体が与えられるまで、その「手形」は「命」と同等の貴重な価値をもっていました。しかし、いったん「命」という実体が与えられた後、その「手形」という紙切れに何の価値が残っているでしょうか。この紙切れはまさしく紙切れでしかないのです。イエスの血の犠牲が捧げられ、それによりキリストを信じる者全てにその「代価」である「命」が与えられた後では、血もまた動物の肉体を構成する物体の一部としての価値しかなくなったのです。イエスが「血を飲みなさい」と言って弟子たちの肝を抜いた時、古い契約の元での物質としての血の価値の終わりと、イエスの血を取り入れることによる永遠の命の始まりを告げ知らせたのです。