『異邦人の時再考』 − 要旨と抄訳 旧JWIC

この記事は村本治医師の許可を得て掲載する「エホバの証人情報センター」の記事です。原文のまま掲載をしております。趣旨についてはこちらをご覧ください。

この本は、エホバの証人にとって重要な1914年という年代が、どのような根拠から導かれているのかを丁寧に検証したものです。エホバの証人では、エルサレムが紀元前607年に滅ぼされ、そこから「七つの時」に当たる2520年を数えることで1914年に至ると説明されています。

著者は、この年代について聖書の記述だけでなく、古代バビロニアの年代記、商業文書、王名表、天文学記録なども調べています。その結果、一般的な歴史年代との間にどのような違いがあるのか、また聖書に出てくる「70年」をどのように理解できるのかを考察しています。

結論を先に決めるのではなく、1914年という教えがどのような前提の積み重ねによって成り立っているのかを、自分自身で確かめたい人のための一冊です。

Amazon

カール・オロフ・ジョンソン・著|村本 治・抄訳

抄訳者のことば

カール・オロフ・ジョンソン著の『異邦人の時再考』は1983年に発行されました。その本の意図と大まかな内容は以下の著者の序文を読めばわかるでしょう。この本は、ものみの塔宗教の全ての教義の最も重要な基盤である、1914年に「異邦人の時」終わり、現代の「終わりの時」に入ったという教義の根本に、聖書学と歴史学の立場から、徹底的に検討を加えたものです。この本は1980年初頭に起こったものみの塔協会の造反、内紛の波の原動力となっりました。当然のことながらものみの塔協会にとっては猥褻本に匹敵するような発禁本と考えられています。この本は残念ながら未だに日本語に訳されておりません。

英語版は、1998年6月にコメンタリー・プレスから増補改訂第三版が出版されました。このウェブページではこの歴史的に重要な文書の一端を日本の方々に味わって頂きたく、抄訳と要旨を掲載することにしました。序と第一、第二章は第二版を元にしております。改訂第三版では、第二章が充実され、三つの章に分かれました。以下のこの抄訳では第三版第五章として、第二版第三章の内容を紹介します。


《 目次 》

第一章 聖書年代計算解釈の歴史

第二章 新バビロニア王朝の年代計算

第三版第五章 「バビロンで七十年」の計算法


要約

『異邦人の時 再考』は、エホバの証人が1914年を「異邦人の時」の終わり、すなわちキリストが天で統治を始めた年とする教理を、歴史資料と古代近東の年代学から検証した研究書です。中心的な論点は、エルサレムの滅亡を紀元前607年とする教団の計算であり、著者カール・オロフ・ヨンソンは、バビロニア年代記、王名表、天文記録、楔形文字文書などを比較検討しました。その結果、一般的な学術年代ではエルサレム滅亡は紀元前587年または586年とされ、607年説を裏付ける同時代資料は見いだせないと論じています。元エホバの証人であるヨンソンが1970年代に研究成果をものみの塔協会へ提示したことも注目されました。本書は、教団内部の聖書解釈と主流の歴史学との隔たりを明確に示した点で重要です。

 私はエホバの証人として、ものみの塔聖書冊子刊行協会に信頼をおいていた。しかし協会が、彼らの使っている年代計算を裏付ける事実を真剣に受け止めず、これを押し隠して何百万人の信者を欺き続けることが分かった時、私はこの事実を出版して多くの人々にこれを吟味してもらうことに踏み切らざるを得なかった。ルカ21:24の異邦人の時が紀元前607年に始まり、2520間続いて1914年に終わったと言う教えは、ものみの塔協会の教義の重要な要素である。1914年はまた、キリストの目に見えない形での再臨が始まった年としても、エホバの証人の教義にとって鍵となる年である。この教義はエホバの証人の「よい知らせ」の実体でもあり、この1914年という年に少しでも疑問を差し挟むことは、ものみの塔協会の教えの根幹をゆすぶることになるのである。

 この本に書かれている研究のきっかけは、1968年、私がエホバの証人の「開拓者」、すなわち全時間伝道者であった時、私が司会をつとめていた聖書研究の参加者が、バビロニアによるエルサレムの破壊が、紀元前607年であることの証拠を示すように私に挑戦してきたことであった。 彼は歴史家がみなこの年を紀元前587年か586年にしていることを指摘した。これがきっかけで私の歴史の研究が始まった。1975年には、私の研究結果は圧倒的に、ものみの塔協会の紀元前607年という年が根拠のないものであることを示していた。私はものみの塔協会の間違いを、不本意ながら認めざるを得なくなった。その後、私はこの研究結果を、何人かの研究志向の友人に示して批判を仰いだが、誰一人として協会の立場を擁護できる反論のできるものはいなかった。その時点で私はこの研究結果を、系統だった論文の形でまとめて、ニューヨーク・ブルックリンのものみの塔協会の統治体に提出することに決め、これは1977年に提出された。この本はこの論文を元にしている。

 この論文を提出した後、統治体は私に対して、この論文の内容を他のエホバの証人に知られないようにする要請の手紙を何度も送ってきた。それと同時に協会は、この論文を慎重に検討したいが時間がないとも書いてきた。私はこの統治体の対応を素直に受け入れ、待ち続けた。しかし、1978年になり、協会の態度は急変した。1978年9月2日、私はスウェーデンのものみの塔協会幹部に呼び出され、審理を受けた。そこで私は、ブルックリンの統治体の兄弟たちが、私の論文を気にしているので、絶対に他の証人にこのことを話さないように厳重に注意された。このことがきっかけとなって、私はエホバの証人の長老の職を辞退することになったが、その直後からスウェーデン中の証人の間に、私が協会の年代計算を否定したという噂が広まった。これがきっかけでスウェーデン中に私に対する非難、中傷の火の手があがった。私はこれに対し統治体のアルバート・シュレーダーに手紙を書き、私の論文に対する真摯な回答を出してその内容で反論することなく、このようにその著者の個人攻撃を協会が容認することは残念である旨を述べた。

 1980年2月28日になり、協会はついに私の論文に対する反論の一部を送ってきた。しかし、これは協会がすでに出版していた607年の根拠の繰り返しであり、私の論文の中ですでに根拠がないことが示されたことばかりであった。更に1981年に出版された「あなたの王国が来ますように」の付録の中でも、同じ議論が繰り返された。このことは、協会が、私が示した新しい事実を正面から真剣に受け止めようとする態度を、最終的に放棄したことを意味した。そして協会は、私やその他の協会の年代計算に疑問を差し挟む者たちの、口を塞ぐことに本格的に乗り出した。これは明らかに協会の意向が、大部分のエホバの証人に正確な情報を与えず、つんぼさじきにおくことであることを示していた。この時点で、私はこの「異邦人の時再考」を出版する決意をした。

 ものみの塔協会が私のように、協会の教義に反する議論をする者に対して、その口を塞ぐために使う議論は、「エホバは、キリストがすべての持ち物をつかさどらせた『忠実な思慮深い奴隷』を通して、真理を漸進的に明らかにされる。従ってわれわれは、『エホバにおいて待つ』、つまり組織が『新しい真理』を出版するまで待つ必要がある」ということである。組織の先を行く者は、『忠実な思慮深い奴隷』よりも多く知っているという、思い上がり者であるというのである。しかしこの協会の論理は、この今、問題となっている協会が使っている年代計算そのものが間違っていたら、崩れ去る議論なのである。なぜなら、キリストがすべての持ち物をつかさどらせた『忠実な思慮深い奴隷』が、今の統治体であるという教義は、ひとえにこのたとえ話の中の、主人に当たるキリストが、1914年に帰ってきて1919年に『忠実な思慮深い奴隷』を任命したという、教義にかかっているのである。つまり、もしこの論文で示されるように1914年に異邦人の時が終わらずに、キリストがその年に帰って来なかったなら、ものみの塔協会の指導部だけが『忠実な思慮深い奴隷』として、独占的に真理を出版するという教義も崩れ去るからである。

 クリスチャンにとって『エホバにおいて待つ』ことは確かに重要なことである。しかしものみの塔協会の歴史を見てみると、その最初から彼らは『エホバにおいて待つ』のではなく、常にエホバの先を行ってきた。彼らが1874年にキリストの再臨の時を決めて以来、数多くの年代設定が予言され、全てが外れた。これが彼らの言う『エホバにおいて待つ』態度とどうつながるのだろうか。本当に『エホバにおいて待つ』ことが重要と思う者は、今すぐものみの塔協会の時期尚早な年代推測から手を引くべきであろう。

 この本がエホバの証人の間に、不安を引き起こす可能性のあることは私も承知している。しかし真の信仰とは歴史と調和していなければならない。従って私はこの本が、真のクリスチャンにとっては、その平和と一致の妨げとはならないと確信している。真の一致の力は愛でなければならない。残念ながら愛による一致の他に、組織の指導者が自分たちの権威を守り、人々を支配するために、恐怖によって人を引きつける一致もある。このような一致においては組織の成員は、自由に考え表現する自由を、組織の権威者にあずけて放棄する。そのような組織では自分の目で確かめてみようと思う者は直ちに攻撃される。これがまさしくものみの塔の組織で起こることなのである。

 しかしそれでも、かなりの数のエホバの証人が、全てを犠牲にして一致をはかろうとする、組織の権威に対して、神から与えられた批判力を保つことができた。私がこの研究を始めた後、何人ものエホバの証人たちが独立に同じ疑問を持って、協会の年代計算を徹底的に研究し、私のこの論文と同じ結論に達した。この中には最初、協会の年代計算法を弁護するために一生懸命研究をした結果、協会の年代計算法の間違いを指摘せざるを得ない立場に至った者もいた。その最もよい例が協会の聖書辞典である「聖書理解の助け」の著者である、レモンド・フランズ氏であろう。この本の322ページから348ページの年代計算の記事は、協会が発行した年代計算に関する出版物の中では、最も優れたものである。しかしその著者自身は、広範な研究にもかかわらず、協会の紀元前607年という年を擁護することが出来ないことを見いだした。後に彼自身、この年を擁護することを完全に放棄し、更にこの年が鍵となっていたこの宗教のすべての教え放棄するに至ったのだった。

 結語として、私はこの論文に励ましと忠言を与えてくれた、世界中の多くの友人、その中には現役のエホバの証人も多数ふくまれるが、に感謝したい。しかし最大の感謝はエホバ神に対してである。この研究はエホバへの祈りとエホバの真理の言葉が常に基礎となっているからである。確かにある種の年代計算は偽りであるが、エホバの予言は歴史の中で繰り返し成就されていることが、この研究の中で確認された。この信仰を強めさせる発見は私とって大きな喜びであった。読者方々もこの同じ喜びを味わって頂きたい。

1982年12月
スウェーデン、パルティユにて
カール・オロフ・ジョンソン

第一章 聖書年代計算解釈の歴史

「一年に対して一日」の規則

 ものみの塔の1914年の教義の基礎となるのは二つの数字である。一つはその計算の起点となる紀元前607年であり、もう一つはこれに加算される「異邦人の時」の期間である2520年である。2520年の計算は、ダニエル4:23の「七つの時」の「時」は360年であるとの前提に立っている(360×7=2520)。この360年という数字は啓示の書12:6と12:14で三つ半の「時」が1260日であることに基づいている。従って1260を3.5で割ると360という数が出る。そしてそこでのもう一つの大きな前提が「聖書では一日が一年に当たる」という「一年に対して一日」の規則である。

 聖書の中でこの「一年に対して一日」の計算法が明らかに使われているのは二箇所である。それは民数記14:34とエゼキエル4:6であり、共に聖書本文の中でそのように解釈するように書かれている。それ以外の年数の計算にこの「一年に対して一日」の規則をあてはめたのは、紀元一世紀のユダヤ教のラビ、アキバ・ベン・ジョセフが最初と言われる。9世紀のユダヤ教のラビ、ナハウェンディはダニエル8:14の2300日を2300年と計算し、シローの陥落(紀元前942)から計算して紀元1358年をメシアの来る年と予想した。彼はまたダニエルの1290日を1290年として、エルサレムの第二の神殿の破壊(紀元70年)から起算して1358年の同じ年を算出している。その他多数のユダヤ教のラビたちがこの「一年に対して一日」の規則を当てはめて14世紀、15世紀、19世紀にメシアの来る年を予測してた。

 キリスト教の世界では修道僧、フロリスのヨアヒムが12世紀に、最初にこの「一年に対して一日」の規則をダニエルと啓示の書11:3の1260日に当てはめている。これ以前に初期のクリスチャンたちがこのような「規則」に基づいて聖書を解釈していたという証拠は見つかっていない。ヨアヒムは紀元1260年という年を特別な年と考えたようではあるが特別な予想はたてず、1260年の来る約60年前に死んだ。しかし彼の追随者たちは1260年に新たな体制が始まると信じたといわれる。その時以来、この「一年に対して一日」の規則は、聖書に基づいた年代予想に無数の例で常用されるようになった。

異邦人の時への「一年に対して一日」の規則の適用

啓示の書の11:2、3で述べられている「42週」あるいは「1260日」は、「神殿が諸国民に与えられ、聖なる都市が42週の間踏みにじられる」という表現から、ルカ21:24の「異邦人の時」を指しているという解釈は古くから行われていた。12世紀から13世紀にかけては、紀元1260年に異邦人の時が終わる、あるいはエルサレムが復興される等の予想が多く打ち出された。ビラノバのアーノルドは、異邦人の時がローマ帝国によるエルサレムの破壊から、ダニエル12:11に出てくる1290日すなわち1290年目に終わると予想した。これは14世紀に起こるはずであったが、この予想された時期は折から十字軍の聖地奪回の時期に当たり、彼の予想は十字軍を鼓舞する信仰上の拠り所となった。

 15世紀を過ぎて、もちろんこれらの予想がことごとく外れた後は、この異邦人の時の終わりの予想はローマ教皇に反対する宗教改革者の一部の間に引き継がれた。彼らは1260年の起点を次々に遅らせて自分たちの時代の近い将来に終わりが来るように計算法を変えていった。彼らの論理では「神殿が踏みにじられた」のはローマ教皇がキリスト教界を支配した時点で始まったことにしており、紀元300年代から500年代が起点として使われた。例えば1795年、イギリスのジョージ・ベルはこの計算に基づいてローマ教皇が1797年かもしくは1813年に倒されるであろうと予測した。興味あることには、この直後の1798年にローマ教皇ピウス六世がフランス軍により捕囚となり流刑にされる。実はこの1798年という年は、これ以外にも何人かによって、かなり前から重要な年として予想されていた。その後この年は一つの確立した年として1260年間の終わりとして扱われることが多い。ものみの塔宗教の創始者チャールズ・ラッセルとエホバの証人たちも、1930年まではこの年を年代計算の中の重要な年として使用していた。

 19世紀初頭のヨーロッパは、フランス革命とナポレオンの席巻により混乱の時代に入った。この時代に多くの人々が、自分たちが「終わりの時」に生きていると感じるのも無理はなかった。「世界の終わり」を予測する動きが一段と活発になったのがこの時代であった。アメリカとイギリスでは、ウィリアム・ミラーをはじめとするキリスト再臨を期待する運動、いわゆるミラー派(Millerite)の動きが盛んになる。彼らはダニエル8:14の2300日を2300年として、キリストの再臨を1843年、1844年、1847年などに設定した。

ジョン・アクィラ・ブラウンと2520年の計算

 最初に2520年の計算法を提唱したのはイギリスのジョン・アクィラ・ブラウンであった。彼もまた、ミラー派と同様、1843年(後に変更して1847年)のキリスト再臨説を唱えていたが、それとは別にダニエル4:23の「七つの時」が2520年と計算されるべきであり、ネブカドネザル王の統治の開始の年とされる紀元前604年に2520年を加算して1917年を「イスラエル王国の栄光が完全に現される」年とした。これに続いて、2520年を異邦人の時に当てはめる説が次々と打ち出された。例えばをマナセが捕囚された(歴代第二33:11)紀元前677年から起算して、2520年を加算してミラー派の予測してきた1843年と一致させる計算法が提唱され、後にミラー自身にも受け入れられた。ドイツでは神学者ベンゲルが1836年をキリスト再臨の年と定めていたが、彼もこの2520年の計算を取り入れ、マナセの捕囚の年を紀元前685年として、これに2520年を加算して1836年に一致させていた。その他多数の計算法、予測が発表されたが、2520年を使用して1843年に再臨の年を設定する方法が、当時広く受け入れられた。

ネルソン・バーバー

 1844年に多くの期待に反してキリストの再臨が起こらなかった時、ミラー派の動きは幾つかのアドベンティスト(再臨派)の派閥に分かれていく。これらの派閥は更に多くの異なった年代設定を発表していく。これらの中から現在のアドベンティスト派とセブンスデー・アドベンティスト派が形成されていった。ウィリアム・ミラーの仲間であったネルソン・バーバーは1844年に予想が外れた後、一時完全に信仰を失い、オーストラリアへ行って金を掘って金儲けに専念した。しかし彼は、イギリスを経由してアメリカへ帰国する船の中で聖書を読むうちに新たな年代計算法を思いつく。アメリカ帰国後、彼はアダムの創造から計算すると1873年が人類創造から6000年目に当たることを思いつき、1870年に彼独特の年代計算法を発表して1874年を来るべきキリスト再臨の年とした。彼はその教義を広めるため「真夜中の叫び」という月刊誌を発行した。しかし、1874年になって、キリストの再臨らしきことが全く起こらなかった時、バーバーはその説明に迫られた。彼は年代計算には間違いがないと確信していた。彼は「正しい時に違うことが起こった」として聖書の中にその答えを探した。そこで彼は、再臨にあたるギリシャ語のパルーシアは「見えない形で存在すること」という解釈を考えつき、キリストは1874年に予想通り再臨したが、それは目に見えない形で起こったと発表した。彼は再臨が起こったことを示すため、雑誌の名前を「真夜中の叫び」から「朝の先触れ」に変更したが、信奉者の間にこの「目に見えない再臨」の説は広くは受け入れられなかった。

チャールズ・テーズ・ラッセル

 ペンシルバニア州アレゲーニーに生まれた、ものみの塔宗教の創始者チャールズ・テーズ・ラッセルは1870年、18才の時に聖書研究会を始めるが、これは最初からアドベンティスト派の大きな影響を受けていた。彼は最初アドベンティストの1873年、1874年の年代設定を受け入れなかったが、1876年、バーバーの発行する「朝の先触れ」の「目に見えない再臨」説を読み感動する。彼はバーバーとフィラデルフィアで会見し、直ちに1874年が「目に見えない再臨」の年であることを受け入れる。そして同年1876年の10月にラッセルは、バイブル・エグザミナーという雑誌に「異邦人の時:いつ終わるのか?」という記事を書き、そこで「七つの時」は2520年であり、紀元前606年から起算して1914年に終わるという、その後長年にわたってものみの塔宗教で引き継がれている1914年の教義を初めて発表した。更にラッセルは一連の著作の中で、1914年に神の王国が完全に確立され、エルサレムは神の神殿として復興される、1914年の前に大艱難の時代が来る、等の予想を発表した。後にラッセルは彼のこの予想は単なる予想を越え、1914年は「神の設定した年代」として疑いを許されない年であると信者に教えた。

 しかし、1914年が近づくにつれてラッセルは少しずつ自分の1914年に関する予想に弱気になっていく。一つの問題点は、単純に紀元前606年に2520年を加算する方法では、実は紀元0年が存在しないことが計算に入れられていないために、正確に計算するとその結果は1914年でなく、1915年になってしまうことであった。ラッセルはこの計算法の問題点を1904年頃に気付いていたが、教義を根本的に変更するには遅すぎた。1913年のものみの塔誌の「あなたの節度を示しなさい」という記事の中で、ラッセルは年代を予想することに対する過熱状態に節度を示すよう促している。1914年の1月になると、ものみの塔の記事の中で彼は「われわれはこの1914年という年が、予想したような劇的で迅速な秩序の変化が来ると確信しているわけではありません」という、数年前に断言した「神の設定した年代」から比較すると何とも弱気の姿勢に変わっていった。1914年が進むにつれ、ラッセルはますます弱気になり、ほとんど1914年の年代計算は間違いであることを認める直前まで行く。

 しかしその年の8月、ヨーロッパが第一次世界大戦に入ると、ラッセルは直ちに来るべきものが来たと確信し、彼の年代計算への確信は元々の強固なものへ戻った。彼は以後1916年10月31日の死まで、異邦人の時は終わり、「神の復讐の日」あるいは「ハルマゲドンの戦い」が始まったという記事を、ものみの塔誌や聖書研究の本に次々に発表していった。ラッセルはこの第一次世界大戦に続いて社会主義革命が起こり、階級闘争から無政府状態になるという予想を立てた。しかしこの予想に反して1918年、第一次世界大戦は終わってしまった。

 この後、ラッセルの追随者たちはしばらく混乱の時期に入る。それまでの外れては捨て去られた19世紀の幾つもの年代設定とは異なり、1914年には確かに「何か」が起こってしまった。従ってこの年を直ちに捨て去ることはできなかった。バーバーが1874年を守るために、年を変えるのでなく年の意義を変えたのと同様、ものみの塔の指導者も数年かかって新たな1914年を根幹とした教義作りを考えた。そしてついに1922年のセーダーポイントの大会で、ものみの塔協会第二代会長のラザフォードは、神の王国は確かに1914年に確立されたが、それは地上でではなく、天で見えない形で起こった、という新しい解釈を発表した。同じ大会でラザフォード会長は、キリストが天の神殿に見えない形で1918年頃に王座についたという新しい教義も明らかにした。それまでは、ラッセルはキリストが天の神殿に来たのは1878年であると教えていた。またラザフォードは1930年までの間に、キリストの「見えない形での再臨」が起こったのは1914年であると変更した。それまではラッセルの(そしてそれはバーバーによって最初に作られた)1874年がその年であるという教義であった。ここに現代のエホバの証人が、「真理」として記憶し信奉する現在の年代計算法が完成したのである。

第二章 新バビロニア王朝の年代計算

 ものみの塔協会の1914年の教義は新バビロニア帝国の継続期間と緊密に関係している。新バビロニア帝国が終わったのはバビロンがペルシャ王キュロスによって征服された紀元前539年であるが、この紀元前539年という年は、粘土板の楔形文字に残された詳細な天文観測の記録から、現代の天文学者によってその年の正確さが確認されている。キュロスはその治世の一年目に、バビロンに捕囚の身であったユダヤ人に対してエルサレムへの帰還を許した。ものみの塔協会はこの史実を次のように使って1914年の教義の起点である紀元前607年を算出している。先ず、エレミヤ25:11、29:10、ダニエル9:2、歴代第二36:21で述べられている70年が、キュロスによるユダヤ人の解放によって終わったと考える。そしてユダヤ人が実際にエルサレムに帰還したのは紀元前537年の秋であるとする。(訳注:この論理については、ものみの塔協会発行の『聖書全体は神の霊感を受けたもので、有益です』(1990年)の285頁を参照。)従ってそこから70年をたして逆算すると紀元前607年という年が出てくるのである。ものみの塔協会は、この年にネブカドネザル王がエルサレムを破壊し、以後1914年に終わる2520年間の異邦人の時が始まったと主張し、これがものみの塔宗教の根幹となる1914年の教義の基礎となっている。しかし、この一見もっともらしく見える説は、実は以下に見るように、多くの確立された史実と全く一致していないのである。

 この章では先ず、古代歴史家の時代以来確立されてきた新バビロニア王朝の王の在位期間の年代を検討し、それがものみの塔の紀元前607年エルサレム破壊の説とは全く異なることを見る。そして七項目の証拠をあげて、この古代以来確立されてきた王在位期間が、いかに信頼性の高いものであるかを詳しく検討する。これらの7項目は、証拠の独立性から考えて次ぎの4項目にまとめられる。年代記などの歴史資料、商業・施政文書、天文学日誌、そして同時代のエジプトの記録との一致である。これらを通じて、ものみの塔の年代計算が正しいためには、すべての歴史証拠で説明できないような空白の20年間が新バビロニア王朝の歴史に付け加えられなければならないことを示す。

古代歴史家の記録

 二人の古代歴史家が新バビロニア王朝の歴代の王の治世の記録を残している。バビロニアの神官ベロッソスは紀元前3世紀にギリシャ語でバビロンの歴史を記している。残念ながらこの記録の原著は失われ、後代の引用が残っているのみであり、現代の引用は「エウセビオス年代記」に収められている。もう一人は紀元2世紀のギリシャの天文学者で歴史家であったクラウディウス・プトレマイオスで、彼は紀元142年にその有名なバビロン王名表を著した。ものみの塔協会はその『洞察』の事典の中でプトレマイオスがベロッソスの著作を資料として使ったと推測しているが(『聖書に対する洞察第二巻』438頁参照)、実際には多くの学者がプトレマイオスがベロッソスと独立に、バビロンの王の記録を使ってこの王名表を作成したと考えている。これらの二人の古代歴史学者のバビロニア王の治世の記録は以下のようになっている。

王名ベロッソスプトレマイオス紀元前年代
ナボポラッサル21年21年625-605
ネブカドネザル43年43年604-562
アウィル・マルドック2年2年561-560
ネリグリッサル4年4年559-556
ラバシ・マルドゥック9ヶ月556
ナボニドス17年17年555-539

新 もしこれらの二人の(独立の)バビロニア王朝の最古の歴史家たちの記録が信頼できるものであるなら、ネブカドネザル王の第一年目は紀元前604年又は603年になり、その18年目であるエルサレムの陥落の年は紀元前587年又は586年になる。ものみの塔協会の主張する紀元前607年にはネブカドネザルはまだ王位にも就いていないのである。プトレマイオスの記録の正確さに関しては、その天文学上の記録が現代の天文学者の計算により確認されたこと、他の楔形文字の記録とも一致することから高い評価を受けてきた。

 しかし、ものみの塔協会はプトレマイオスのバビロン王名表が信頼のおけないものであることを示す学説をいくつか上げて、これに基づいた聖書年代計算を退けようとしている。(詳しくは『聖書に対する洞察第二巻』438頁参照。)実際、著名な物理学者であるロバート・ニュートンは『プトレマイオスの罪』(1977年)と題する著書の中で、プトレマイオスがその天文学上の記録を改ざんしており、従ってその王名表とバビロニア王朝の継続期間も信頼できないと発表した。これはものみの塔協会の有力な反論材料となり、1977年12月15日号のものみの塔誌747頁(英文版)に勝ち誇ったように掲載された。しかし、このニュートンの説にはその後多くの反論が上げられている。ニュートンは物理学者で歴史学者ではなかった。確かに天文学上の記録には改ざんの跡が見られるかもしれないが、そのことがバビロニア王朝の記録の正確さをも覆すことになるだろうか。興味あることは、ニュートンはその著書の序文の中で、バビロニア王朝の歴史についてはフィリップ・コントゥール氏の援助を受けたと書いているが、実はこのフィリップ・コントゥールはエホバの証人であった。当時のものみの塔協会の年代計算の方法は『聖書理解の助け』に述べられており、ニュートンがコントゥールを通してこの見方に影響されたことは想像に難くない。ニュートンが見逃しているのは、プトレマイオスのバビロニア王朝の継続期間の記録が、その400年前に書かれたベロッソスの記録や、ごく最近発掘された多くの新バビロニアの歴史記録と完全に一致することである。もしプトレマイオスがその天文記録を改ざんしたにしても、その王朝の記録は偶然では説明できない一致がある。更にニュートン自身がその著書の中で認めているように、新バビロニア王朝の継続期間に関しては、全く独立の天文学的な確認の証拠が上げられている。

 プトレマイオスはカンピュセス王の第7年目に月食が起こった事を記録しているが、これは天文学的に確立された紀元前523年のことであった。これがプトレマイオスの作り話でないことは近年発掘された楔形文字による記録で確認されている。また、最も重要であるネブカドネザル王の治世の継続期間の37年間も、プトレマイオスが記載したこの期間に起こった月の満ち欠けと星座の観測記録が正確であることは、現代の天文学者によって確認され、それによってネブカドネザルの治世が紀元前568年または567年に終わったことが確立された。従ってニュートン自身も、その著書の中で「従ってプトレマイオスの王名表がネブカドネザル王に関しては正確であることの強力な証拠があり、カンピュセス王に関しても正当な証拠がある」と書いている。

 ものみの塔協会がニュートンの著書を使って、プトレマイオスの記録の全ての信頼性を退けるのは正直な態度ではない。ニュートンの述べているように、プトレマイオスの天文学的な記録の中に確かに改ざんがあり、その記録のあるものは信頼がおけないかもしれないが、上記のニュートン自身の言葉で確認されるように、1914年の教義の鍵となるネブカドネザル王の在位期間に関しては、その記録の正確さはあらゆる方向から確認されているのである。

 更に「プトレマイオスの王名表」という名前自体が実は正確ではない。この王名表はプトレマイオスの遥かに以前から、バビロニアの天文学者によって伝えられ、アレキサンドリアの天文学者によって使われていた天文学資料なのである。たとえプトレマイオス自身の信頼性に疑問があったとしても、その王名表は独立の信頼性を持つものである。

 しかし百歩譲って、ものみの塔協会の主張するようにプトレマイオスは信頼できない歴史家であるとしよう。現在ではこの王名表の記録の正確さを証明するために、プトレマイオスの信頼性を議論する必要は全くなくなている。次に示すように、過去約一世紀の間に発掘された考古学資料が、プトレマイオスの記録の正確性を全く独立に証明しているからである。それらの証拠は次の7項目に分類される。

年代記その他の歴史資料

バビロニア年代記

 この年代記の翻訳は現在進行中であり原物は大英博物館で閲覧できるが、この中の史料BM21946には「ナボポラッサルは21年間バビロンを支配した。彼はアブの月の8日目に死んだ。ネブカドネザル(Ⅱ)はバビロンに戻り次の月の第一日にバビロンの王座に就いた」と書かれている。この年代記は一部が失われており、完全なバビロニア帝国の歴史を語ってはいない。しかし新バビロニア帝国に関してはかなり詳しい記録が残されており、これはプトレマイオスとベロッソスの記録とよく一致している。このことは、この二人の歴史家が、バビロニア年代記を独立に参照してその歴史を書いたことを示しており、彼らの歴史が元の年代記の記載をかなり正確に反映していることを示す。

 それではバビロニア年代記の信頼性についてはどうであろうか。アッシリアの記録はその王や神をたたえるために、彼らに不利な歴史が書き換えられたことが知られている。バビロニアでも同じことがあったのだろうか。アッシリアとバビロニアの歴史の権威であるA.K.グレイソン博士は「バビロニアの書記は、アッシリアと異なり、自分の国の敗戦も記録し、また敗戦を戦勝に書き換えることもなかった。バビロニアの書記はかなり客観的な記述をしており、従ってその記録は旧約聖書の記録とよく平行している」と述べている。従って、バビロニア年代記の数字は、そしてそれはベロッソスとプトレマイオスの記録に反映されて現在知ることができるが、新バビロニア王朝の王の治世期間をかなり正確に知る資料となるのである。

列王表

 歴代の王の名前のリストとその治世の年代を記録した表が多く出土しているが、その中で新バビロニア王朝の王を示すのはウルク列王表である。これは1959年から60年にかけてのウルクの発掘作業で出土し、1962年に翻訳されて出版された。この表は多くの部分が欠損してはいるが、新バビロニアに関しては次のような記録が見られる。[ ]内の文字は欠損していることを示す。

在位期間王名
21年間ナボポラッサル
43[年]間ネブカドネザル(Ⅱ)
2[年]間アウィル・マルドゥック
[X]+2年8ヶ月ネリグリッサル
[…]+3ヶ月ラバシ・マルドゥック
[Y]+15年間ネボニドス

 この表はベロッソスとプトレマイオスの記録と比較するとナボポラッサル、ネブカドネザル(Ⅱ)、アウィル・マルドゥックの治世の年数は一致しているが、他の三人の王に関しては数字の一部欠損で不明な点がある。[X]は1であり、[Y]は2であろうと推測されている。

王朝碑文

 バビロニア時代の王朝碑文は多数出土している。これらは歴史文書と異なり、その王の同時代人が記録している点で重要である。その中で新バビロニアに関係するのは次の3つであり、いずれもナボニドス王の時代に書かれた。

 ナボン18号:この円柱碑文にはナボニダスが、エラル13という月食の日に娘を月の神シンに女神官として捧げた、と記されている。1949年ヒルデガード・ルイはこの月食が紀元前554年9月26日に起こったものであることをつきとめた。これはベロッソスとプトレマイオスの記録によると、紀元前555年又は554年に始まり17年間続いたナボニダスの治世の2年目に当たることになる。このことは20年後のW.G.ランバートによる研究により、別の史料から確認された。新しく出土した粘土板の碑文にはナボニダスがその治世の3年目の少し前に娘を捧げたとい書かれていたのである。このことはベロッソスとプトレマイオスの記録と、ナボン18号の記録との正確さをを独立に証明し、ベロッソスとプトレマイオスのナボニダス王に関する記録の信頼性を強力に確立した。

 ナボン8号:ヒラー碑文とも呼ばれるものでバビロンの南西部で出土した。ここにもナボニダス王の治世の天文学上の記録が記されている。そこにはナボニダス王の第一年目に起こった事として、ある日の夕暮れに金星、土星、木星が見られたが火星と水星は見えなかった、アルファブーティス、イプシロンヴァージニス、アルファライレ、の星が見られた、と記されている。この星と惑星の組み合わせを計算すると、これは紀元前555年5月31日から6月4日の間になる。これもまたベロッソスとプトレマイオスの記録に基づいたネボニダス王の第一年目と完全に一致し、その記録の正確さがここでも天文学的に証明されている。

 この碑文にはまたナボニドスの治世二年目のこととして、「ハランにあるエ・ハル・ハル神殿が54年間破壊されたままに放置されており再建されなければならない」と書かれている。この神殿の破壊はバビロニア年代記史料BM21901とナボンH1B号にともに記載され、ナボポラッサル王の16年目に起こった事として記録されている。この事実は明らかにナボポラッサル王の16年目がナボニドス王の治世二年目の54年前であることを示すが、これまたベロッソスとプトレマイオスの記録と完全に一致するのである。つまりナボポラッサルの治世が21年であったから、16年目から彼の最後までは5年あり、次のネブカドネザル王は43年間、次のアウィル・マルドゥック王が2年間、次のネリグリッサル王が4年間(ラバシ・マルドゥックの数ヶ月の治世は除外する)の治世があったからそれらをを合計すると(5+43+2+4)54年になるのである。

 この事実は、天文学的に確立されたナボニドス王の第一年目が紀元前555年又は554年であれば、ナボポラッサル王の16年目は紀元前610年又は609年になり、従ってナボポラッサル王の21年目は紀元前605年又は604年になり、この年ネブカドネザルは王位に就いたことになる。ネブカドネザル王の第一年目は紀元前604年又は603年であり、従ってエルサレムが彼によって破壊された治世18年目は紀元前587年又は586年となる。これが現在の古代オリエント学者の間で一致して受け入れられている年代であり、それはまたベロッソスとプトレマイオスの記録とも完全に一致するのである。

 ナボンH1B号:これは1956年に出土した新しい碑文で、ものみの塔協会の『聖書理解の助け』の記載にはこれは使用されず、その事典の中ではナボンH1Aのみが紹介され、これらの碑文がいかに信頼がおけないかの例として使われていた。しかしこの新しいH1Bでは、信頼のおけない例とされていた部分の完全な記述が読みとれるようになった。これはナボニドス王の母の生涯を記述したものであるが、この母がナボニドス王の9年目に死ぬまでの新バビロニア王朝の各王の治世が全て記録されている。そこには「私はアッシュルバニパル、アッシリア王の20年目に生まれ、アッシュルバニパルの42年目、アッシュルエチルイリの3年目、ナボポラッサルの21年目、ネブカドネザルの43年目、アウィル・マルドゥックの2年目、ネリグリッサルの4年目、の合計95年間を生きて…」と各王の治世の継続期間が明らかに書かれている。更にこの母の生涯を要約する形で「アッシリア王のアッシュルバニパルの時から、息子であるバビロニア王ナボニドスの9年目までの幸福の104年間、神々の王であるシンに敬意を捧げ、シンは私を栄えさせ、…」と新バビロニア王朝の継続期間を直ちに計算できる数字が書かれている。この年代記述もまたベロッソスとプトレマイオスの記録と完全に一致するのである。

 確かにこれらの年代記、列王表、王朝碑文は、それぞれが同一の記録に基づいて書かれた可能性は否定できない。またベロッソスとプトレマイオスの記録もその同じ記録を使っていた可能性は十分考えられる。しかし、そのことはこの新バビロニア王朝の記録の信頼性を揺るがす材料ではなく、むしろその信頼性を確認するものと考えるべきであろう。というのも、同時代人の記述も含めて何世紀もの時間を隔てて書かれたいくつもの記録が、これらの年代記録において完全に一致していることは、それらの記録がいかに誤りなく長年にわたって保存されていたかを示しており、それはまたベロッソスとプトレマイオスの記録の、少なくともこの新バビロニア王朝の記録に関する限りでは、揺るぎ無い信頼性を保証するのである。

商業・施政文書

 メソポタミアの発掘では粘土板に楔形文字で書かれた何十万件にわたる文書が発掘されているが、その多くは商業や施政に関する契約や手紙であり、すべて発行の日付が何々王の何年目、何の月の何日目と記されている。この記録は新バビロニア王朝の全ての王に関して残されており、これらの記録からだけでも各王の在位期間をほとんど日の単位で正確に同定することができる。これらの文書は新バビロニア王朝の各年にわたってそれぞれ残されている。

 ものみの塔協会の1914年の教義の基になる紀元前607年に、エルサレムがネブカドネザル王によって破壊されたとするなら、新バビロニア王朝の継続期間は、上に示された確立された記録を20年間だけ引き延ばさなければならない。しかしこれらの膨大な数の楔形文字の文書には、この記録にない20年間に相当する日付のついた文書は一つも見つかっていない。全ての新バビロニア王朝時代の文書につけられた日付は、上に述べた確立された各王の在位期間と完全に一致するのである。すなわちネブカドネザル王の治世では43年目まで、アウィル・マルドゥック王の治世では2年目まで、ネリグリッサル王の治世では4年目まで、ナボニドス王の治世では17年目まで、の全ての各年にその日付のある文書が見つかっているが、各王のそれ以後の年の日付のついた文書は一切ない。もし新バビロニア王朝がものみの塔協会の主張するように20年間引き延ばされるのであれば、この何千件にわたる新バビロニア王朝期の粘土板の中にその20年間の分だけが一切ないということをどのように説明するのであろうか。

 これらの商業文書の中で特に興味があるのは、ネブカドネザル王の治世を含めてバビロンで強力な銀行を経営していたエグビ家の、銀行取引の詳細な記録である。この銀行の「頭取」の歴史的記録が各王の治世の年を使って記録されている。この記録を辿ると、ネブカドネザル王の第三年目からペルシャのダリウス・ヒュスピスタス王の第一年目までの三人の頭取の名前と在任年数が記録されている。これらの在任年数を合計すると81年になる。ダリウス・ヒュスピスタス王の第一年目は、ものみの塔協会も認める紀元前521年と確立されているので(『聖書に対する洞察第二巻』166頁参照)、そこから逆算するとネブカドネザル王の第三年は紀元前602年、そして第一年は紀元前604年になる。これもまたベロッソスとプトレマイオスの記録と完全に一致するのである。このエグビ家の歴代の記録は、新バビロニア王朝の継続年数を疑いの余地を一切残さずに確立させている。そこにはものみの塔協会の主張を正当化させるための空白の20年間を説明する余地はないのである。またこのエグビ家の記録は、その他多数見つかっている年代を経た取引の記録などバビロニア王朝の王の在任期間を示す史料の中ほんの一例に過ぎない。

天文学日誌

 バビロニアの天文学者の記録の中でネブカドネザル王の治世に関係しているのは、ベルリン博物館に所蔵されているVAT4956と呼ばれる史料である。これにはネブカドネザル王の第37年目から第38年目までの天文観測の記録が記されている。これにはそれぞれの日の月の位置と水星、火星、金星、木星、土星の星座との位置関係が詳細に記録されている。この記録のうち、約30日分のものはその記述が非常に正確であるために、現代の天文学者が容易に日付を計算することができた。それによるとこの観測が行われたのは紀元前568年又は567年であり、この月と五つの惑星の位置関係がこのような組み合わせになることは、その後何千年に一度しか起こらないことが明らかになった。ネブカドネザル王の第37年目が紀元前568年又は567年であるなら、その第一年目は紀元前604年又は603年になり、これまたベロッソスとプトレマイオスの記録と完全に一致する。

 最古の天文学日誌BM32312にはやはり5つの惑星と星座との位置関係が記録されており、現代の天文学者はこの日誌を紀元前652年又は651年に同定できる。この日誌では王の名前と在位年は欠損しているので、ものみの塔協会がよく主張するように、これらの日誌には後の書記によって王の年代が挿入されたという議論は通じない。しかし日誌にはその年の12月目の27日にヒリトという場所でバビロニア王が戦ったと記されている。このヒリトの戦いはバビロニア年代記(BM86379)にやはり12月目の27日として記録されており、それはシャマシュシュムキン王の16年目に起こったとされている。従って独立に別の時期に記された天文学日誌とバビロニア年代記の記録を組み合わせることにより、シャマシュシュムキン王の20年間の在位は紀元前667年から648年、その次のカンダラヌ王の在位は紀元前647年から626年、次のナボポラッサル王の在位は625年から605年、そしてネブカドネザル王の在位は604年から562年と同定される。これまたベロッソスとプトレマイオスの記録と完全に一致するのである。

エジプトの記録との一致

 新バビロニア王朝の間に、ユダの王国またはバビロニアとエジプトとの間には、計4回の歴史的事件が記録されている。このうち3つの事件に関しては聖書に記述がある(列王第二23:29、エレミア46:2、エレミア44:30)。4つ目は楔形文字文書BM33041に記されており、ネブカドネザル王がその37年目にエジプトのアマシス王に攻勢をかけた事件である。

 エジプトの王の在位期間は、バビロニア王朝の年代計算とは完全に別の方法で確立されている。エジプトには一連の墓碑が全ての時代を通じて残されており、それらの墓碑に王の名と年月日が全て記されているのである。新バビロニアの時代に相当するエジプトには第26王朝が支配しており、その王(ファラオ)の在任期間は次の様に確立されている。(訳注:エジプトの王の在位期間の計算法はバビロニアと異なり、即位の年が第一年目と数えられている。)

エジプト王名在位期間紀元前年代
プサメティクスⅠ54年664–610
ネコⅡ15年610–595
プサメティクスⅡ6年595–589
ホフラ19年589–570
アマシス44年570–526
プサメティクスⅢ1年526–525
カンビュセス王によるエジプト征服525年5月/6月

 列王記第二23:29にはユダの王ヨシヤが、メギドに攻めてきたエジプト王、ファラオ・ネコに殺されたことが記されている。ものみの塔協会は、エルサレム破壊の年が紀元前607年になるように合わせるため、このヨシヤ王の殺された年を紀元前629年としている(『聖書に対する洞察第二巻』1093頁参照)。しかしエジプトの王朝の記録によればネコの王位はその19年後の紀元前610年にしか始まらない。

 エレミア46:2ではファラオ・ネコがユーフラテス川のほとりのカルケミシュで、ネブカドネザル王に撃ち破られ、これはユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年目に起こったと記されている。ものみの塔協会はこの年を紀元前625年としている(『聖書に対する洞察第一巻』410頁参照)。この年もまたネコが即位する15年も前のことなのである。一方ものみの塔協会の上に述べた空白の20年を差し引いて、このカルケミシュの会戦が紀元前605年のネブカドネザルの即位の年(これは第一年目の前の年になる)に起こったとすると、ファラオ・ネコの在位期間、紀元前610年から595年と完全に調和するのである。

 エレミア44:30ではエホバの言葉として、ネブカドネザルによるエルサレムの破壊により一部のユダヤ人がエジプトに逃げた時、エジプトはファラオ・ホフラの王政下にあったことを示している。もしものみの塔協会の主張するようにエルサレムの破壊が紀元前607年に起こったとするなら、それはファラオ・ホフラの王座に就く18年前になり、この聖書の記述と一致しない。一方エルサレムの破壊が確立された紀元前587年に起こったとすれば、ホフラの任期は紀元前589年から570年であり、この聖書の記述と調和するのである。

 BM33041ではネブカドネザル王がその37年目にアマシス王に戦いを挑んだと書かれているが、もしネブカドネザルの第一年ががものみの塔協会の主張するように紀元前624年であるなら(『聖書に対する洞察第二巻』421頁参照)、その第37年目は紀元前588年になり、それはアマシス王でなくホフラ王の治世になってしまう。

 このように4箇所の新バビロニア王朝時代のエジプトに関係する事件の年代は、全て独立したエジプトの年代計算により、ものみの塔協会の年代計算とは全く一致せず、ベロッソスとプトレマイオスの記録と王朝碑文、商業文書、天文学日誌等で確立された年代と完全に一致しているのである。興味深いのはこのものみの塔協会の年代は常に、あらゆる方法で確認された年代より20年遅れている(空白の20年)のである。

第二章のまとめ

 ものみの塔協会の主張する新バビロニア王朝の年代が史実や聖書と一致せず、プトレマイオスに代表される確立された年代が正しいことは次のような知見から確立される。

  1. 年代記その他の歴史資料
     a)バビロニア年代記
     b)列王表
     c)王朝碑文(ナボン18号、ナボン8号、ナボンH1B号)
  2. 商業・施政文書(特にエグビ家の記録)
  3. 天文学日誌
     a)VAT4956
     b)BM32312
  4. エジプトの記録との一致

 ものみの塔協会の主張する年代が正しいためには、どのような前提が必要だろうか。先ずベロッソスが間違いを冒して新バビロニア王朝の継続期間を20年短く記録した、それを400年後のプトレマイオスが独立に同じ間違いを冒して同じ年代記録に達した、と考えなければならない。あるいはこの二人は同じ20年分の間違いの含まれるバビロニア年代記を使用したとする。しかしそれではナボニドス王と同時代の書記が、自分たちの現在進行しつつある出来事をどのようにして20年間違えて記録するのだろうか。それと同時にナボニドス王の母は自分の生涯を20年分だけ短くして記録しなければならない。またそれと同時に、全く異なった地に住んで異なった記録を残していったエジプトの書記たちも、一斉に新バビロニア王朝の時代にあたる期間に20年の間違いを冒さなければならない。天文学日誌の王の記録は、ものみの塔協会が主張するように後世において王の名前と治世の年を書き換えて、ちょうど全てが20年間遅れるようにしたと考えなければならない。

 最も難解であるのは、何千と出土した新バビロニア時代の商業文書で、全ての王の全ての治世の年と日付のものが出土しているのに、ものみの塔の年代計算に必要な「空白の20年」の部分だけが一切出土してないのである。このような多くの別々の時代と場所から出てくる記録が、一斉に20年間違っているということが、ものみの塔協会の主張するようにありうることであろうか。可能性は次のどちらかである。当時、数百年にわたって国際的にこの20年間を歴史から削り去る「共謀」が行われその結果、何万何千とあるどの史料を見てもこの20年は出てこない、あるいは実際にこの「空白の20年」は存在しなかった。前者の可能性がいかに馬鹿げた妄想で不可能な事であるかを見れば、ものみの塔協会の年代計算は疑いの余地を残すことなく20年間だけ間違っている、すなわちエルサレムの破壊は紀元前607年ではなく、紀元前587年または586年に起こったことが誰の目にも明らかになるのである。

 1922年7月15日のものみの塔誌217頁には「強力な年代計算の綱」と題する記事があり、次のように述べられている。

 年代計算がいくつかの証拠によって示されるならそれは強固に確立したことになります。科学的な確立論の法則は、年代計算の綱の合わされた束が、個々の証拠一つ一つを足し合わせたものより遥かに強固な力を与えることを示しています。この法則は多くの重要な事柄で使用されます。すなわち、もし一つの事柄が一つの方法で示されたのならそれは偶然かもしれません。もしそれが二つの方法で示されたのなら、それはほとんど確実になります。そしてもしそれが三つ以上の方法で示されたら、普通それが偶然であり間違いであることは不可能になります。もしそれに更に別の証拠を加えるなら、それは偶然の領域を完全に出て、証明された確実性になるのです。

私はこの章で7項目の証拠を示し、それらは4項目の完全に相互に独立した証拠に分類されることを示した。その全てが、紀元前587年又は586年が、ネブカドネザル王の18年目に起こったエルサレムの破壊の年であることを示している。上記のものみの塔誌の記事によれば、これは偶然ではあり得ず、「証明された確実性」と見なければならない。

(新サイト管理人注:旧JWICでも三,四章はなくて、第三版第五章となっていますのでそのまま掲載しております)

第五章 「バビロンで七十年」の計算法(1998年増補改訂第三版に基づく)

「エホバはこのように言われたからである。『バビロンで七十年が満ちるにつれて、わたしはあなた方に注意を向けるであろう。わたしはあなた方をこの場所に連れ戻して、わたしの良い言葉をあなた方に対して立証する』。(エレミヤ29:10、新世界訳)

 ものみの塔協会の教える年代計算で、西暦前607年をバビロンによるエルサレムの破壊の年とする根拠は、このエレミヤ書に預言されている七十年を、ユダヤ人の残りの者が捕囚の身から帰還したであろうと考えられる、537年に加えると607年が出てくることによる。ものみの塔は、次の引用に見るように、七十年がユダヤとエルサレムにとって完全な荒廃の期間であったと考える。

聖書預言からすれば、エルサレムが滅ぼされると共にユダヤが荒廃した時から、キュロスが布告を出した結果、流刑の身になっていたユダヤ人たちが自分たちの故国に帰還した時までの期間以外に、この七十年の期間を当てはめられる時代はありません。聖書預言が明示しているところによれば、その七十年間はユダヤの地が荒れ果てた状態で経過する歳月となるはずでした。(『聖書に対する洞察』第二卷449頁)

 しかし、七十年間の説明は本当にこれしかないのだろうか。もし本当にそうであれば、本書の以前の章で述べた、考古学で確立された年代と聖書の年代とが矛盾し、どちらか一方を取らなければならないであろう。確かにそのような状況が本当に存在するなら、考古学の年代を捨てても「聖書に堅くつく」のが確かにクリスチャンの態度であろう。しかし、もし見過ごしていた史実が、確かに預言を成就していたら、史実に支持された預言をとって、史実に支持されない解釈は捨て去るべきではないだろうか。以下に、七十年という期間の預言は、史実によってもはっきり支持されており、聖書と史実とがよく調和していることを見てみよう。これにより、ものみの塔の主張する解釈が、史実のみでなく、聖書とも調和しないものであることがわかるのである。

 聖書の中で、ものみの塔協会が使用する七十年間に言及している箇所は7箇所である。それらは、エレミヤ25:10−12;29:10;ダニエル9:1−2;歴代第二36:20−23;ゼカリヤ1:7−12;7:1−7;イザヤ23:15−18である。これらを一つずつ調べてみたい。

エレミヤ25:10−12

 この預言は、第一節に書かれているように、「ユダの王、ヨシヤの子エホヤキムの第四年、すなわちバビロンの王ネブカドネザルの第一年」に行われた。これは、エルサレムの破壊から18年前に当たる。

『そして、わたしは彼らの中から歓喜の音と歓びの音、花婿の声と花嫁の声、手臼の音とともしの光を滅ぼす。そして、この地はみな必ず荒れ廃れた所、驚きの的となり、これらの諸国の民は七十年の間バビロンの王に仕えなければならない。そして七十年が満ちたとき、わたしはバビロンの王とその国民に対して言い開きを求めることになる』とエホバはお告げになる、『彼らのとがを、カルデア人の地に対してである。わたしはそれを定めのない時に至るまで荒れ果てた所とする』。(新世界訳)

七十年間は「荒廃」か、それとも「従属」か?

 この聖書の箇所、特に11節を注意深く読むと、「七十年の間」という言葉は直接には「これらの諸国の民」が「バビロンの王に仕える」期間を示しているのである。つまり、七十年という期間は「諸国民がバビロンの王に仕えた期間」でなければならない。この点がものみの塔協会の目にも明らかであることは、1971年の大文字版の新世界訳聖書の826頁にこの七十年を「七十年間課せられた従属(servitude)」という表現で現していることでもわかる。(この表現はしかし、私の最初のこの文書がものみの塔協会に送られた1977年の後、静かに書きかえられて、1984年の大文字版の新世界訳聖書の965頁では「七十年間課せられた流刑(exile)」となっている。)

 ものみの塔協会は決して、この七十年間が「バビロン王に仕えた」、すなわち「従属」の期間であることも、ユダという一つの国についてではなく、その周囲の諸国の民について述べていることも、決して問題にはしない。協会は、この七十年間は、「完全に荒廃した期間」であり「ユダ」の国だけをさしていると常に教えてきた。しかし、ここに見るように協会の解釈はエレミヤの言葉に直接矛盾しているのだ。

 それでは「従属」と「荒廃」とはどのように違うのだろうか。 エレミヤ27:7,8、11を見ればわかるように、バビロン王の政策はユダを含む周辺の王国の王が、バビロンに忠誠を誓うことを第一にしていた。そしてこのような忠誠を誓うことを拒否する王国に対して、ネブカドネザル王は武力による破壊と征服を行ったのだった。つまり、バビロン王に忠誠を誓って「従属」することと、反逆して「破壊」と「荒廃」をこうむることとは、全く正反対の出来事なのだ。それだからこそ、エレミヤは27:17で、「バビロンの王に仕えて、生きつづけよ。どうしてこの都市が荒れ廃れた所となってよいだろうか」と警告しているのだ。

 ユダの国がバビロン王に対して忠誠を誓わなかったのが七十年間にも及ばなかったことは、聖書からも史実からも明らかである。ユダは18年の従属の後に、ネブカドネザル王によって滅ぼされている。この事から見ても、このエレミヤが預言した七十年間は、エレミヤ25:11にはっきり書かれている通り、ユダだけでなく諸国の民が、バビロンに破壊されたのでなく従属していた期間でなければならないのだ。

七十年間はいつ終わったのか?

 エレミヤ25:12によれば、エホバは七十年間の終わりの時に、はっきりと、「バビロンの王とその国民に対して言い開きを求める」と預言されている。全ての歴史家も、またものみの塔協会も、全員がこの預言は西暦前539年に成就されたという点では一致している。すなわちこの年の10月に、バビロンは、ペルシア王キュロスによって占領され、ダニエル5:30によれば、バビロン王のベルシャザルは殺害される。すなわち、この西暦前539年という年を境にして、バビロンの支配は崩れ、もはやどの国もバビロン王に忠誠を誓うことは出来なくなっただった。

 エレミヤの25:12の言葉は、ものみの塔協会が主張する、七十年間は西暦前537年に終わったという説とは、真っ向から矛盾する。ものみの塔は、539年にバビロンが倒れた後、ユダヤ人の残りの者たちがユダに戻って国を再興するのに2年たったと計算し、539から2を引いて537という数字を出している。しかしそれでは、バビロンが崩壊した2年も後で、エレミヤ25:12に預言されている、「バビロンの王とその国民に対して言い開きを求める」ことができるのだろうか。これはバビロンが崩壊したその時点でなければならない。すなわちエレミヤ25:12を忠実に解釈すれば、七十年間の終了は西暦前539年以外にないのである。ものみの塔協会はこれに関しての説明を一切行っていない。

七十年の預言の歴史的背景

 先に述べたように、このエレミヤ25:10−12の七十年の預言は、エルサレムの破壊の18年前に行われたが、この年、すなわちエホヤキムの四年目という年は、歴史的に有名なカルケミッシュの戦いでネブカドネザル王がエジプトの王ファラオ・ネコに勝利を収め、バビロンがシリアやパレスチナの支配を開始した年であった。この戦いは西暦前605年に起こったとされている(ものみの塔協会の年代計算だけは西暦前625年)。大英博物館に所蔵されているバビロン年代記21946によれば、戦いの終わった直後から、ネブカドネザルこの地区の平定を始め、シリア・パレスチナの諸国を自分の属国としていった。その中でネブカドネザルは一時、父の死の後を継いで王座に就くためにバビロンに戻ったが、その翌年も通じて、この地域の平定を行ったのである。これから見ると、「諸国の民がバビロンに仕え」始めたのは、西暦前605年と考えるのが妥当であろう。

ダニエル1:1−6に見るユダの従属の開始

ユダの王エホヤキムの王政の第三年、バビロンの王ネブカドネザルはエルサレムに来て、これを攻め囲んだ。やがてエホバは、ユダの王エホヤキム、および[まことの]神の家の器具の一部を彼の手に渡された。そのため彼はこれをシナルの地に、自分の神の家に携えて来た。それらの器具を自分の神の宝物倉に携えて来た。そののち王は、廷臣の長アシュベナズに、イスラエルの子らおよび王族の子孫や高貴な者たちの中から幾人かを連れて来るように言った。すなわち、何ら欠陥がなく、容姿が良く、あらゆる知恵に対する洞察力を持ち、知識に通じ、知られた物事に対する識別力があり、王の宮殿に立つ能力をも備えた子供たちを[連れて来るように]、そしてこれにカルデア人の読み書きと国語とを教えるように[と命じた]。さらに王は、それらの者たちのために、王の美食の中から、また自分が飲むぶどう酒の中から日ごとのあてがい分を定めた。三年のあいだ彼らを養い、その終わりにこれらの者を王の前に立たせるためであった。さて、それらの者たちの中に、幾人かのユダの子らがいた。ダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤである。

 このダニエルの書の冒頭を見ると、「エホヤキムの王政三年」にネブカドネザルはエルサレムを攻めて、ダニエル自身を含む、ユダの要人の一部を捕虜としてバビロンに連れ帰ったことが書かれている。第二節を見ると、「ユダの王エホヤキム・・・を彼の手に渡された」とある。この表現は、聖書の他の部分を見てもわかるが(裁き人3:10;エレミヤ27:6,7)、強制的に従属させられたことを意味する。なお、この年は実はエレミヤ書の「エホヤキムの第四年」と同じ年である。何故なら、ユダでは王の年数を数えるのに即位年を一として数えるのに対し、ダニエルが官吏として仕えていたバビロンでは即位年をゼロとして実際の在位年数を数える方法をとっていたからである。ユダの在位年数を使ったエレミヤと、バビロンの在位年数を使ったダニエルとの間に、一年の違いが出てくるのであるが、実際には同じ年を述べている。

 このように、ユダのバビロンに対する従属は、エホヤキムの在位期間の早い時期に始ったいるのだが、もちろん、ものみの塔協会の年代計算では、これはうまく当てはまらない。ものみの塔協会はこれを説明するために、「エホイヤキムの王政の第三年」というダニエルの1:1の言葉を文字通り取らずに、「バビロンに仕える属国の王としてのエホヤキムのこの第三年のことであろうと思われます」としている(「聖書に対する洞察」第一巻410−411頁)。そしてこれはエホヤキムの王としての11年間の最後の年とする。これは、すなわちネブカドネザル王の第8年目(ユダ計算法)になる。

 しかしこの解釈はダニエルの2:1の記述と真っ向から矛盾している。ここでダニエルは、ネブカドネザル王の第二年目に王の夢の解釈をしているのである。もしダニエルがネブカドネザル王の8年目(あるいはバビロンの計算法では7年目)にバビロンに連れてこられたとするなら、どうして彼がネブカドネザル王の第二年目に夢の解釈ができるのだろうか。この点を何とか取り繕うために、ものみの塔は、ダニエルの2:1の「ネブカドネザルの王政第二年」をやはりその通りに解釈せず、エルサレムが破壊された年から第二年、実はネブカドネザルの王政代十九年をさしている、という無理な解釈を行っているのだ。(「聖書に対する洞察」第二巻135頁)

 このように、ダニエル1:1−2と2:1を見ても、ものみの塔協会の七十年預言の解釈は、聖書の記述そのものと矛盾し、「エホイヤキムの王政の第三年」、「ネブカドネザルの王政第二年」という単純な記述をそのまま素直に解釈せず、捻じ曲げて解釈せざるを得なくしている。なお、バビロニアの神官ベロッソスが紀元前3世紀に書いたバビロンの歴史の中でも、ネブカドネザルが王に就いた第一年目にすでに、ユダの一部の人々がバビロンに捕虜として連れ去られたことを記している。ベロッソスはこの記録をバビロン年代記や新バビロン王朝の時代の記録に直接基づいて書いており、この点でダニエル1:1の解釈を裏付ける重要な史料なのだ。

エレミヤ27、28、35章に見る「従属」の年代

 これらのエレミヤの章の記載をみると、「諸国の民の従属」(エレミヤ25:11)はエルサレムの崩壊の、はるか以前に始っていたことがわかる。エレミヤ27章の初めの部分を見ると、ユダの王ゼデキヤの時代にすでに、エドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンなどがすでにバビロンの従属国になっていたことがわかる。これば6節でエホバが、「わたしはこれらすべての地を、バビロンの王、わたしの僕、ネブカドネザルの手に与えた」と述べている通りである。 エレミヤ28章では予言者ハナニヤが、ゼデキヤ王の第四年目(1節)に、エホバのことばとして、「わたしは丸二年の内に、すべての国の民の首からバビロンの王ネブカドネザルのくびきを砕くであろう」と述べている。このハナニヤの預言は間違ってはいたが、この事件から間違いなく明らかなのは、このハナニヤの預言が行われた、ゼデキヤ王の第四年目にすでに、すべての国の民の首に、「ネブカドネザルのくびき」置かれていたということである。

 エレミヤ35章では、エホヤキム王の時代にすでに、バビロンの王ネブカドネザルがユダの地に侵入し、レカブ人は避難するために、エルサレムに住むようになったことが書かれている。また列王第二24:1にも、エホヤキム王の時代に「バビロンの王ネブカドネザルが上って来たので、エホヤキムは三年間彼の僕となった」、と書かれている。しかしその後、エホヤキムは翻ってネブカドネザルに背き、カルデア人、シリア人、モアブ人、アンモン人がユダを滅ぼすために遣わされた。このことも、すでにこの時代に、これらの「諸国の民」が、バビロンに従属していたことを物語る。

エレミヤ25:10−12のまとめ

 エレミヤの七十年の預言は、エルサレムの完全な荒廃の期間を言及しているのではなく、ユダだけでなく、「諸国の民」がバビロンに従属していた期間をさしていることを、聖書に基づいて見てきた。そして聖書の他の箇所、バビロニア年代記、ベロッソスの記録、エレミヤの他の章や列王第二24章は、すべて「諸国民の従属」が、カルケミッシュの戦いの同じ年に、既に開始されていたことを示している。

エレミヤ29:10

「エホバはこのように言われたからである。『バビロンで七十年が満ちるにつれて、わたしはあなた方に注意を向けるであろう。わたしはあなた方をこの場所に連れ戻して、わたしの良い言葉をあなた方に対して立証する』」。

 エレミヤが次に七十年間に言及するのは、彼が、エルサレムからバビロンに流刑になっている、ユダヤ人に送った手紙の中であった。29:3に見るように、これはイスラエルの破壊される数年前にあたる、ゼデキヤ王の時代であった。この手紙の中で、エホバはエレミヤを通して、「バビロンで七十年が満ちるにつれて、わたしはあなた方に注意を向けるであろう。わたしはあなた方をこの場所に連れ戻して、わたしの良い言葉をあなた方に対して立証する」と言っている。この手紙がその時点ですでにバビロンに流刑になっている人々によって読まれた手紙であることを考えれば、「バビロンで七十年が満ちるにつれ」という表現は、その時点ですでに七十年間が進行中であることを前提にしている。もしものみの塔協会の解釈のように、七十年間がエルサレムの破壊によって始まるとするなら、このエレミヤ29:10の手紙では、「バビロンで七十年」は将来の事として言及されなければならず、その時点での流刑者は、まずその七十年が始まるエルサレムの破壊まであと数年を待たなければならず、つまり計七十数年という、預言に矛盾する年数を待たなければならなくなる。ここでもまた、七十年間がエルサレムの破壊によって始まったという、ものみの塔協会の解釈は聖書の内容と調和せず、七十年間はエルサレムの破壊の前に始まった、バビロンによる諸国の支配の期間でなければならないことがわかるのである。

「バビロンで七十年」の訳の問題

 この「で」(英語原版新世界訳では“at”)はヘブライ語の前置詞“le”の訳であるが、場所や時を表す at, in, の他に、for, to, in regard to, with reference to(ための、関しての、ついての)などの表現にも使われる。従って英語圏の聖書は大部分、この前置詞を“for”あるいは “to”、すなわち「バビロンに対しての」という意味に訳している。すなわち29:10の七十年間は「バビロンの地においての」という意味ではなく、「バビロンに対して(従属)の」と解釈されている。[ちなみに日本語訳の聖書では、新世界訳以外は、口語訳、新共同訳、新改訳、とも全て「バビロンに七十年」と訳している。また王国欽定聖書では十七世紀の最初の訳の伝統を守って“at”が使われている。]「バビロンに対しての」という意味の訳が、他のエレミヤの言葉、特に上に見た25:10の「従属の七十年間」という表現と最も調和するのである。

ダニエル9:1−2

メディア人の胤アハシュエロスの子ダリウス、すなわちカルデア人の王国の王とされた者の第一年、その統治の第一年に、わたしダニエルは、エルサレムの荒廃が満了するまでの年の数を幾つかの書によって知った。それに関してのエホバの言葉が預言者エレミヤに臨んだのであり、[すなわち、]七十年であった。

 ダニエルは、ダリウスがバビロンを滅ぼした年に、「エルサレムの荒廃が満了するまでの年の数を幾つかの書によって知った。それに関してのエホバの言葉が預言者エレミヤに臨んだのであり、[すなわち、]七十年であった」と述べている。この表現は、一見ダニエルがエルサレムの荒廃は七十年間続いたと言っているかのように見え、ものみの塔協会もこの部分を瀕回に使って「荒廃」の期間が七十年と主張する。しかし、ここでダニエルは、預言者エレミヤの手紙、すなわち上のエレミヤ29:10の「バビロンで七十年が満ちるにつれ」を引用していることを忘れてはならない。従って、このダニエルの9:2の七十年間はエレミヤ29:10と同様に、バビロンによる支配の期間と解釈すべきであろう。

 この時点で、ダニエルがエルサレムが復興されることを期待したことは、9:3からのダニエルの祈りに現れている。なぜならダニエルの引用しているエレミヤの29章の12節には、七十年間の満了の後、「あなた方は必ずわたしを呼び、来て、わたしに祈り、わたしはあなた方の言葉を聴くであろう」と書いてあり、ダニエルはここでその通りにしているのだ。従って、ダニエル9:2で述べられていることは、その時点でエレミヤの預言した「バビロンで七十年」が終了したことの認識と、その時点でエルサレムの荒廃状態が終わるという希望である。エルサレムの荒廃が七十年前に始まって七十年間継続したという直接の言及は、ここには見いだせないのだ。

歴代第二36:20−23

その上、彼は剣を逃れた残りの者たちをとりこにしてバビロンに連れ去り、こうして彼らは、ペルシャの王族が治めはじめるまで、彼とその子らの僕となった。これはエレミヤの口によるエホバの言葉を成就して、やがてこの地がその安息を払い終えるためであった。その荒廃していた期間中ずっと、それは安息を守って、七十年を満了した。(歴代第二36:20−21)

 この21節を読むと、歴代記の筆者は「この地が安息を払い終える」のに七十年かかり、それがエレミヤの預言と一致しているように見える。しかし聖書の他の部分との対応を調べてみると、この歴代記の筆者が使っている表現は、レビ記26:34、「その時、荒廃しているその期間中ずっと、すなわちあなた方が敵の地にいる間に、その地は安息を払い終えるであろう。その時、その地は安息を守る。それは自らの安息を返済するのである」を直接引用している事がわかる。歴代記の筆者は、ダニエルと同様、ユダの荒廃はモーセの律法のこの部分が適用されたものと信じていたので、このレビ記の言葉をここに挿入したのだ。この歴代記の表現にも、元のレビ記の表現にも、安息が守られたのが七十年間であったとは直接書かれていない。安息を守ったのは「荒廃していた期間中ずっと」であり、それが終わった時に、エレミヤの預言した七十年が満了したと述べているに過ぎない。荒廃の期間がいつ始まったかは、どこにも述べられていない。言い換えれば、ここではペルシャ王がバビロンを滅ぼした段階で、二つの異なる預言、エレミヤの「バビロンで七十年」とモーセの「この地が安息を払い終える」とが、同時に成就したと述べているのだが、そこから「この地が安息を払うのに七十年かかった」とは結論できないのである。

そして、ペルシャの王キュロスの第一年に、エレミヤの口によるエホバの言葉が成し遂げられため、エホバはペルシャの王キュロスの霊を奮い立たせられたので、彼はその王国中にあまねくお触れを出させ、また文書にしてこう言った。「ペルシャの王キュロスはこのように言う。『地のすべての王国を天の神エホバはわたしに賜わり、この方が、ユダにあるエルサレムにご自分のために家を建てることをわたしにゆだねられた。すべてその民の者であなた方の中にいる者はだれでも、その神エホバがその人と共におられるように。それゆえ、その人は上って行くように』」。(歴代第二36:22−23)

 歴代第二36:22−23のこの部分は、聖書解釈者の間で意見の分かれている所である。これに基づいて、七十年間の満了はバビロンの崩壊した西暦前539年ではなく、その翌年にキュロスがユダヤ人の帰国を許した時とする解釈の仕方がある。それは、「エレミヤの口によるエホバの言葉」の成就をすなわち七十年間の満了と解釈するためである。しかし、この歴代第二の部分と、エレミヤ29:10の預言とをよく比較して見ると、歴代記の筆者は「成し遂げられた」ことがユダヤ人のエルサレムへの帰還とエホバの家の再建であることがわかる。一方エレミヤ29:10では「わたしはあなた方をこの場所に連れ戻し」と書いてある。従って、「エレミヤの口によるエホバの言葉」の成就は七十年間の満了ではなく、ユダヤ人の帰還という、エレミヤの預言の成就を述べているのである。

 もう一度、上に取り上げたエレミヤ29:10を注意深く読んでみよう。そこには「あなた方をこの場所に連れ戻し」たその後で、七十年間が満了するという、ものみの塔協会の解釈するようなことは書いていない。エレミヤ29:10には、「バビロンで七十年」が満了したその結果として、「あなた方をこの場所に連れ戻し」と言っているのである。従って、エレミヤ29:10の預言に忠実に従うのであれば、七十年間の満了は、ユダヤ人がまだバビロンにいるうちに起こっていなければならないのだ。このことは、また前に述べた、エレミヤ25:12の「そして七十年が満ちたとき、わたしはバビロンの王とその国民に対して言い開きを求めることになる」、というエホバの言葉とも調和する。七十年間の終了時点において、エホバはバビロンの王とその国民に対して、言い開きを求めるとあるが、これはまさしく、バビロンの王が滅ぼされた時でなくてはならず、バビロンの崩壊が過去のこととなってしまった時点ではありえない。

ゼカリヤ1:7−12

 次に述べるゼカリヤの二つの引用は、ともに七十年という年数が使われており、ものみの塔協会はこれが、エレミヤの預言した七十年間と同じものをさしている、と解釈する。しかし、次に見るように、ゼカリヤの述べた七十年がエレミヤの預言と直接関係しているという証拠は見いだせない。

すると、エホバのみ使いは答えて言った、「万軍のエホバよ、いつまであなたは、エルサレムとユダの諸都市に憐れみを示されないのでしょうか。この七十年間の間、あなたはこれを糾弾されたのです」。 (ゼカリヤ1:12)

 ゼカリヤにこの幻しが下ったのはダリウス王の二年、それは西暦前519年のことであった(ゼカリヤ1:7)。当時、ユダヤ人はエルサレムに帰還し、神殿の再建は始まったが、エホバの目から見て、その状態は憤りを買うものであった。ものみの塔協会は、この「七十年間の間の糾弾」を、エレミヤの預言の七十年間と同じものと解釈する。しかし、み使いが「糾弾」について話しているのは、ユダヤ人の帰還後、そろそろエホバが憐れみを示すべきはずの時なのに、まだ「糾弾」が続いていることを述べているのである。もしものみの塔協会の解釈のように、この「糾弾」がユダヤ人帰還前の七十年間をさしているのなら、実際の「糾弾」は90年間も続いたことになってしまう。

 もっと聖書全体の流れの中でこの「糾弾」の意味を見つけてみよう。このゼカリヤの前後関係を読んでいくと、エホバの「糾弾」の表れは、荒廃し続けて再建が追いつかない、エルサレムと神殿の状態であることがわかる。このことはゼカリヤ1:16で「わたしは必ず憐れみを抱いてエルサレムに帰る。わたしの家もそこに建てられるであろう」、と書いてある通り、糾弾が終わって憐れみが示される時は、神殿の再建であることがわかる。神殿の崩壊が、ネブカドネザルのエルサレムの崩壊の時であることを考えれば、ここで「七十年の間糾弾」と言っているのは、神殿の破壊から、西暦前520年から515年の間に起こった再建までの、約七十年間をさすと考えるべきであろう。実際、ネブカドネザルの包囲が始まった西暦前589年から計算すれば、ハガイの書に書かれたダリウス王の二年目の再建までの年数はぴったりと七十年になるのである。

ゼカリヤ7:1−5

さらに、王ダリウスの第四年、第九の月[つまり]キレウスの四[日]に、エホバの言葉がゼカリヤに臨んだ。そのためベテルは、エホバの顔を和めようとして、シャルエツェル、およびレゲム・メレクとその支配下の人々を送り、万軍のエホバの家に属する祭司たち、また預言者たちに語ってこう言った。「わたしは、これまで、ああ幾年になるでしょうか、ずっとしてきましたように、第五の月に物断ちを行って泣き悲しむべきでしょうか」。すると、万軍のエホバの言葉が引き続きわたしに臨んでこう言った。「この地のすべての民また祭司たちに言うように。『第五の[月]また第七の[月]にあなた方が断食を行って泣き叫んだ時、しかもそれは七十年に及んだが、[その時]あなた方は、本当にわたしに、このわたしに対して断食を行ったのか。』

 このゼカリヤに対するエホバの言葉は、ダリウス王の第四年、すなわち西暦前518年に語られた。

 ここで述べられている、断食の習慣は、ユダヤ人が過去の悲しい歴史を、記念して忘れないようにするためのものであった。第五の月の断食はネブカドネザルの護衛長であるネブザラダンがエルサレムとその神殿を焼き払った(エレミヤ52:12,13;列王第二25:8,9)悲しみの記念であった。また第七の月の断食は、ネブカドネザルがエルサレムの崩壊の後、ユダヤ人の貧しい残りの者を世話するように任命したゲダリヤが殺された日(列王第二25:22−25)を記念している。これらの断食が、エルサレムの破壊の時の悲劇に基づいていることは、ものみの塔協会も認めている。(『人類のために回復される楽園−神権政府によって!』<1972年、英語版のみ>235頁)ここでベテルの人々が祭司や預言者に尋ねていることは、「ネブカドネザルのひどい仕打ちを悲しむ記念の断食をいつまですればいいのですか」、という質問である。

 これに対してエホバは、「それは七十年に及んだ」と言ったのだ。もちろん、それはそのはずである。西暦前518年の七十年前、すなわち西暦前587年に、この悲劇的な事件である、エルサレムの破壊が起こったからである。もし、ものみの塔協会の言うように、エルサレムの破壊が西暦前607年に起こったのであれば、エホバは「それは九十年に及んだ」と言わなければならない。この点は、上記の『人類のために回復される楽園−神権政府によって!』の中で、ものみの塔協会も認めざるを得なくなっている。

流刑中のユダヤ人が、七十年間のユダの地の荒廃のあいだ断食をし、またその残りの者たちが故国に帰ってからのこれらの全ての年のあいだ、彼らは本当にエホバに断食していましたか。(『人類のために回復される楽園−神権政府によって!』<1972年、英語版のみ>237頁)

 ここで、ものみの塔協会は、彼らの計算によれば、断食が七十年と、それに加えて帰国後の三十年近い年月が加えられていることを、意図してかしてないか、認めている。しかし、それに対する説明は、現在までの所、見当たらない。この点でも、ものみの塔の西暦前607年のエルサレム破壊という解釈は、直接エホバの言葉に矛盾するものであることがわかる。

七十年間はどの期間にあてはまるのか

 以上見てきた聖書の内容から、エレミヤの預言にある七十年間をどの期間に当てはめるか、については次のような条件が満たされなければならない。

  1. 七十年間はユダの国だけでなく、諸国に当てはまらなければならない。
  2. 七十年間はこれらの諸国の荒廃でなく、バビロンに属国化した状態に当てはまらなければならない。(エレミヤ25:11)
  3. 七十年間はバビロンが支配していた期間でなければならない。(エレミヤ29:10)
  4. 七十年間の満了はバビロンとその王が罰せられた年、つまり西暦前539年でなければならない。(エレミヤ25:12)
  5. 七十年間の開始はエルサレムの破壊の何年も前でなければならない。(エレミヤ27、28章;ダニエル1:1−4、2:1;列王第二24:1−7)
  6. ゼカリヤ1:12、7:5に出てくる七十年間は、エレミヤの七十年間をさすのでなく、神殿の破壊から西暦520−515に行われた神殿の再建までの期間をさす。

 ものみの塔協会の七十年間の当てはめ方は、ユダの国だけにあてはめ、完全な荒廃状態に対して使っており、聖書の記述と真っ向から矛盾する。それはものみの塔の年代計算が、すべて1914年から逆算されて作られた西暦前607年という年を正当化するための年代計算であることによる。

 それではこのエレミヤの預言の七十年間は、実際にはどの期間に当てはまるのであろうか。上に述べたように、聖書ははっきりと、その七十年間はバビロンの王が崩された時としており、すなわち西暦前539年に七十年間が終わることは間違いない。始まりの年は、諸国がバビロンの属国になり始めた西暦前605年が最も聖書の記述にあっている。しかし、この問題点はその期間が七十年ではなく、66年になってしまうことである。

 ここで考えなければならないのは、70という数は旧約聖書の中で7と並んで特に意義のある数字と考えられていたということである。70という数は旧約聖書の中で52回にわたり、別々の事柄、重さ、長さ、人の数、時間の長さなど、色々な量を表すのに使われている。 また聖書の中で七十年と書かれている時、概算の数字として書かれていることがある。イザヤ23:15には「王の日数」は七十年と書かれている。また詩編90:10にも人の寿命は七十年と書かれている。これらは、決して正確な70という数を問題にしているのではなく、大体の数がそうなるという意味である。従って、エレミヤの預言の七十年間という期間もまた、概算の数字として使われた可能性は充分ある。

 もう一つの解釈は、七十年間が実際西暦前609年に開始したと考える場合で、これによれば、七十年間は正確な数字となる。それでは、この西暦前609年という年に、それに相当する事件が起こったであろうか。

 その当時、バビロンのナボポラッサル王は、かつての最強王国であったアッシリアと戦っていた。このアッシリアは、古代オリエントの中の、最初の世界帝国と言われ、鉄の武器を使用して近隣諸国を征圧し、エッセルハッドン、アッシュルバニパル王の時代には、バビロン、イスラエルを含む世界征服を成し遂げた。しかし、西暦前627年にアッシュルバニパルが死ぬと、帝国は衰退を始めた。当時のバビロン王、ナボポラッサルは西暦前616年にアッシリアに勝利を収めたものの、アッシリアを助けるエジプト軍に押され、撤退しなければならなかった。しかし西暦前612年には、アッシリアの首都ニネベが、バビロンとメディアの連合軍によって陥落する。アッシリア王アッシュルウバリット二世は、ハランに首都を移して逃げたが、西暦前609年にハランも陥落し、この年、世界帝国のアッシリアは完全に滅亡した。この609年がアッシリア滅亡の年であると言う点では、歴史学者は一致している。

 以後の歴史展開を見ると、ネブカドネザルがその地域を平定するまで、バビロンはアッシリアの後を継ぐ勢力として、次々と諸国を従えていく。エレミヤの27:7には、「そしてすべての国の民は、彼自身の地の時が来るまで、彼とその孫とに必ず仕える」、と書いてある。従って、七十年の開始は、バビロンがアッシリアに代わって諸国への支配を始めた、西暦前609年とすることは充分可能である。