むちと排斥―_肯定と拒絶の狭間 旧JWIC

あめとむちは人をやる気にさせ,短期間で結果を出させるには有効な手段である。しかし「過ぎたるは及ばざるが如し」の格言どおり,物事は段階的に卒業しなければ、人間の成長は阻まれる。逆に個人の信仰がそれとわからないほど自然に身についているならば、その集合体である組織も成熟の域により近い、と人々は見なすであろう。

特に信仰という不可視の世界の場合,目的を共有するはずの個人と組織との間に横たわる認識の違いが,永久に平行線をたどるかのように見受けられることがある。それは時代が変わっても、宗教改革で人々が直面した問題と本質的に変わらない。すなわち信仰により神から全て許されている、という安心感に立つ宗教観か、それとも自己を放棄することによって愛されることを確信する信仰か、という問題提起である。

後者は国家とか指導者に対し、個人の絶対的な服従を要求する原理と多くの共通点を持つ神概念である。神から肯定されていると感じるか、拒絶されていると感じるとでは、その後の人間の性格構造に大きな違いを生じさせる。どちらを選ぶにせよ、信仰の世界に人間や組織が介在することを否めない以上、挫折体験は必須であるが,そうした現象を生み出しやすい教育環境、またマニュアルを考え出した人々の心理状態や時代背景とはいかなるものか。

そして結果としてむちの犠牲者を生み出した「われわれ世代」がどのようにものみの塔に引き寄せられて行ったか、今回はそうした視点にたって調べてみたい。

【異質性への開放という課題】

人の心は教育の産物、とはよくいったものである。教育(Education)という英語は西洋語の範疇ではラテン語、educere(引き出す)に由来し,独語erziehungのルーツはEr(内から外へ)、ziehung(引く)、つまり西洋では大人が働きかけて,子供の素質を引き出してやるという意味が、教育という言葉に込められている。

教育は単なる養育にとどまらず、子供への働きかけが欠かせない。しかし一人一人の人間には,他人と取り替える事の出来ない人格があり,どんなに不安で苦しくても,結局人は自分で自分の在りかたを決定してゆかなくてはならない。そして芸術作品や他者との『出会い』がこの決定の重要な場面であるとされる。

すると教育は子供が自分のあり方を決めるように訴えかける働き手になる。しかし子供がこの訴えかけに応じない可能性もありうるのであり,ゆえに教育は挫折の可能性をはらんだ営みであると理解される。〔ボルノー〕自己の形成には超個人的な力の制約は不可避であり、この要求を前にして個々人は、同調・順応して既存の文化の維持・拡大に励み、自らの社会的統合に勤めるか、それともその有効性の喪失や不合理性、さらには頽落性を批判して革新を迫り、孤立を恐れずに自らの個性的分化を試みるかの岐路に立たされることになる。社会や文化の発展は基本的に教育によって、その同質性を量的に増大させる事にかかっているといえる。

しかし同じ者や似たもの同士ばかりだと見えてこない不合理性や頽廃性が、自ら異なったものの立場からは、かえって容易に浮き彫りにされる可能性があることを忘れてはならない。異質なものの介在が鏡の役割を果たすことによって、自らの歪みに気づき、それを正すなり別の新しい意味付けを模索する機会が与えられる事になる。今日、異質な存在の積極的な価値が再認識され,異質性への開放という寛容な態度が顧みられる時期に来ている。
〔〈問い〉としての教育学〕

 ものみの塔は証人達に対して、サタンの配下にある世との接触を、自ら距離を置くように徹底的に叩き込むことによって、強固な城壁を塵一つ漏らさず固守してきた。唯一の例外は、「神聖な奉仕」と呼ばれる宣教活動である。それは神に敵対する世の人々に、王国のよい便りを伝えることが、紛れもないアガペー(=敵を愛する)を示す機会であり、ゆえにアガペーは個人の信仰の範疇ではなく、システムの中に自動的に組み込まれている、というわけである。

全てが完結しており、考える必要がない、ただついて行くだけで、最高善が行える。日本ではバブル経済の時期に飛躍的な信者の増加がみられた。学生運動も終わり、平和を満喫し、選択することにあきたベビーブーマー達は、次に燃える事の出来る「何か」を探し求めていた。セカンド・ジェネレーション=われわれ世代の登場である。高度成長期以来、平和な状況に甘んじてきた日本人は、足元から忍び寄る新興宗教の脅威に全くといっていいほど無防備であった。

折悪しくも80年代半ばはオーム真理教がヨガのグループとして発足し、他の新興宗教とも一斉に、20世紀の世紀末を目前に活発な信者獲得活動をはじめる時期と重なっていた。あのバブル期の拝金主義の世相に、漠然とした不安を抱いた日本人たちは少なくないはずである。

本能的な不安は、同じような心理状態にある人々を家庭ではなく、宗教という枠の中に回帰させていった。このようにして同質性のものが自動的に集められ、同調行為を完成させるべく日夜教育を受け、訓練に励む事になったのである。しかしどんなに万全な体制でも時の経過と共に、風化や制度疲労は避けられない。それは出家体制をとっていないのに、実質的には週3日の集会と連日の奉仕活動の取り決めにより、出家と同じような錯覚に陥らせ、俗世を引きずりながら家庭と神の王国との間を行ったり来たりするアンバランスな生活から生み出される肉体的、精神性の瓦解である。

近親結婚が予期せぬ結果を生み出すように、同質性遺伝子の飽和状態は異質の遺伝子によって中和、浄化されねば腐敗が進行するばかりである。

【人類の起源と精神構造】

「人が一人でいるのは良くない。彼に合う助け手を造ろう」。〔創世記1:18〕
人はこの地球上に独りでは生きられない。神がそのように造られたからだ。
「産めよ,増えよ,地に満ちて地を這わせよ。海の魚,空の鳥,地の上を這う生き物全て支配せよ」。〔創世記2:28〕
かくして愛と平和の共同体、という国家ができるはずであった。では歴史的に人間は、どのような過程を歩んできたのであろうか。

「人は集団となり、長い『高度な群れ集団』の時代を経て,「共同体」を確立していった。初期の血縁共同体として出現し,次いでそれを踏まえて、国家を伴う「地縁共同体」が成立した。そしてこの「共同体」の成立とともに,人は人間となり、厳密な意味での「人類」の時代が始まった。言葉が確立され,分業が成立し,掟・法 (法律・法則)が登場し,コモンセンス (常識=共通)が共有された。こうして肥大してゆく「心」の領域は,独立性を獲得してゆき,意識が芽生え、心身二元論の基盤が形成されていったのである。(この点,ものみの塔の教理では心身二元論を否定し,人間は一つの「魂」であると教えている)。そしてこの共同体は,個々の人間の心に刷り込まれ,意識的,無意識的領域に「共同性」として,内在化された。こうした道程は,考古学,文化人類学,歴史学の対象であるだけでなく,個人の精神発達史として,私たち一人一人が,その成長の過程で体得してゆかねばならない。 (ユングの「集合意識」・フロイドの「超自我」・ラカンの「象徴界」など参照)。狂気ないし精神疾患が自立的現象として登場してくるのは,この「共同体」の成立とともにである」。〔精神病の脱構築〕

同じ者の結集した堅固さは目的思考的活動において,迅速性や効率の良さを発揮するが、疑問の余地のない一義的な洞察や解決方法との価値基準や資質といった条件を備えないものや,それから外れるものは、排除されたり無視されたりしてしまう恐れが出てくる。「排斥」は,精神疾患と同じく、終始「共同体」からの疎外を本質としている。しかし「排斥」の問題点は、従来の村八分が基本的に共同体内での除け者であるのに対し、排斥措置は共同体=家族からの追放を意味し、個人の生殺権すべてを奪ってしまう,(あるいは奪われてしまうと感じる)点にある。

当人の承諾した形での排斥もあるが,大抵の場合は一方的な宣告となる。(共産党にも除名,除籍という制度があり,挨拶も交わしてもらえなくなる点では酷似している=アイデンティティの抹殺)。これらが意味するのは、クリスチャン会衆の清さを守るという大義名分のもとに、突然、自分が共同体から「敵」と見なされたことにほかならない。

「ネーションという『愛と平和の共同体』、「われわれ」集団は「かれら」つまり「敵」の登場によってはじめて想像されるものであり、しかも「彼ら=敵」とは「私によって否定された私」が外部に投影されたものである。敵である彼らとは、その正体を暴けば、自分の内側にある恐怖と敵対性のイメージが共同体の外部に投影され、実体化されたものに他ならない。愛する者、あるいは友がいるからそれに敵がいるのではない。敵がいるからこそ、その残余が「われわれ」なるだけである。「昨日の友が今日の敵」となるわれわれ集団の内側に向けての分裂が内戦(civil war)、つまり『異質者に転じた友』の問題である」。〔戦争の人間的起源〕

これは別の重大な問題を提起する。それは神の敵対者、サタンの存在に関わる問題である。ものみの塔はサタンを落ちた偶像としてよりも、神に匹敵するほど強大な力を持った霊者=実在者として位置づけ、多くの証人達を計り知れぬ恐怖感に陥れて来た。それは最初の人間アダムを罪に誘った者、エデンの園を楽園から失楽園におとしめたものとして、教理を展開してゆくうえでの重大な要素になっている。〔創世記3:15〕 そしてエホバの証人以外の世の中を「この事物の体制」「サタンの世」とよび、その代表としてキリスト教世界、特にローマ カトリックを一貫して最大の標的とみなしてきた。

1937年2代目会長ラザフォードは、オハイオ州コロンバスの全体大会で、『Enemies 敵』という書籍を聴衆たちに発表した。その本は偽りの宗教を「人類に害を与える大いなる敵」と呼んで糾弾し、偽りの宗教家を「気づいていようが、いまいが、悪魔の代理者」に等しい事を示した。ラザフォード兄弟はその本を聴衆に見せた時「お気づきになると思いますが、この表紙は皮のような黄褐色をしています。私たちは”かの老婆”をその皮むちで打ち叩くのです」といいました。聴衆は熱意を込め、大きな声でそれに賛同しました。 〔エホバの証人―ふれ告げる人々〕

それは大いなる娼婦、カトリック教会への挑戦を意味していた。宣教を鼓舞するために、比喩としであれ、組織のトップがむちという野蛮な道具を奨励し、さらに聴衆が大会という感情同化の場(群集心理)の中でその宣言に同意した、という記述は一方でエホバの証人の或る一面を垣間見させる。それはすでにこの時点において、彼らの言動に懲らしめのむちとなる異常な精神性のルーツを見出すことに吝かではない、ということである。原始的なむちへの恐怖は排斥と共に親からだけでなく、霊的「家族」という共同体からの疎外を意味する恐怖感と重なるからである。

「家という空間は子供の心に安らぎを与え、彼らが外界に飛び出して行っても、いつでも自分を守ってくれる、庇護的な空間である。真の庇護性とは子供達を外界に引渡し、外界と果敢に関わってきた彼らを迎え入れるという、家と外界との相互性のうちに存在するものである。そのような家に住む子供は、外界の在りかたを賢明な目で見たり、或る時は批判したり否定する事によって、広く世界のあり方を考えるようになるだろう」。〔人間学的に見た教育学:ボルノー 1991〕

疎外されないための譲歩や恭順は信用と呼ばれる事は出来ても,相手の主体性を尊重し,それが生まれ,発揮されるのを辛抱強く待つという態度に支えられた「信頼」とは明らかに異なる。
 
「愛」は対象を選ぶ。愛は憎しみを必要とする。悪を拒絶するという立場は、立派な立場かもしれないが、現状の不正義に対してそれを黙認し、肯定することに加担することになるのであるから、手放しで賞賛できるものではない。サタンの世、世の人と一くくりにすることは、同じ人間ではないと認識することで、良心は免責されむしろ誇りに転化してしまうレトリックを含んでいる。

【ショック療法時代の始まりとプライバシーの始まり】

排斥措置が表舞台に登場するようになったのは、1960年以降、子供達に対するむちの奨励と時を同じくしているように思われる。性悪説を逆手に取り,子供の心の中からサタンを追い出すという悪魔払いのような儀式が日常化し,子供達だけでなく責任を課された母親達も急激に精神のバランスを崩していった。しかしなぜ双方ともが並行して60年代に顕著になったのか、20世紀独特の歴史的背景を考慮したい。

まずその前提として、
1938年にスイスでアルバート・ホフマンがLSDを発見、
(2)ソビエトとの冷戦を背景にした、50年代のアメリカ社会が、狂気的な物質主義に変貌、最も理想的な自白誘導剤としてLSDが注目され始める(個人の信念そのものを逆転させる効果、無意識領域を明らかにしてしまう効果、かつ服用中の体験を忘却)。囚人,精神病患者,政治犯に対する人体実験。
(3)本来軍事目的で使用されるはずであったLSDの種々の効果が検証され、大学や研究所から民間の一般人に流出した。
(4)プライバシーの発見=人間を個人、あるいは市民といった定義から切り離し、プライバシーを持った個人として、情報社会の中に位置づける。
50年代の封じ込め文化の中枢部にLSD体験が持ち込まれ、60年代に入ってLSDを使用したドラッグカルチャーは、保守的な市民生活の個人的な領域へ浸透し、対抗文化=カウンターカルチャーと呼ばれる、主流文化に対する異議申し立てと、新しい文化=オルターナティブな文化の探求を促す社会へと変遷していった。
これは人間の精神構造を変えてしまうテクノロジーのプライベートな領域への転用であり、当時、ソ連がすでにマインド コントロール テクノロジーを持っているというパラノイアにかられたアメリカが、軍事資本主義体制を維持するために様々な情報操作を必要とするきっかけになった出来事である。このことは1953年、CIA長官に任命されたダレスが『ソビエトによって、人間の心はもはや加工することのできる道具になった』という演説に象徴されている。ベトナム戦争後はアメリカ文化と社会が急速に政治的、社会的関心を失い、「ナルシシズムの文化」と呼ばれる個人主義的(ミーイズム)、脱イデオロギー的形態へと移行してゆき、それらは後にサイコセラピー、新宗教、瞑想、環境音楽などに影響を及ぼしていく。アメリカがくしゃみをすれば、半年後に日本がくしゃみをする、といわれた時代である。加害者であるわれわれ世代は、まさにこのような時代の落とし子であり、殆ど海外の情報に恵まれない中で、懸命に時代の風を取り入れるべく必死で戦ってきたのである。

【ホーム・ヴァーチャル・ホーム】

人々の急激な精神変革は、当然、宗教界へも影響を及ぼした。性の自由化により毎年、何千人もの排斥者を出さねばならない状況に直面したものみの塔は、特に道徳上の清さを強調し、幼い時からの訓練の一環として,エフェソス6:1〜4の子と親に対する諭しを,むちを正当化する聖句に変えてしまった。エフェソス6:4を新共同訳では 『父親たち、子供を怒らせてはなりません。主が諭されるように育てなさい』だが、新世界訳では『父たちよ、あなた方の子供をいらだたせることなく、エホバの懲らしめと精神の規制とをもって育ててゆきなさい』と訳されている。普通であれば新世界訳を読んでも、比喩である事を理解するだろう。

しかし「聖書に対する洞察」の「懲らしめ、鍛錬」の項目には「主として子供の教育に必要な物-鍛錬、教訓、強制、懲罰、と関係があります。親は子供を正しく懲らしめる際にエホバを代表しています。そして子供は、永続的福祉を促進する事を意図して与える、愛を表現としてのその懲らしめに答え応じるべきです。・・・会衆からの追放は厳しい形態の懲らしめです」と説明されている。ここにはむちへの言及は見られないが、「むち」の項目を調べてみると「打ち叩く」を参照するように促され、「聖書は懲らしめの手段としてむち打ちの価値を再三強調しています。人間は皆、とがとともに生み出され罪のうちに宿されるので、聖書は親の権威の杖を、時には実際の杖を持ち手厳しく行使しなければならないと諭しています。・・・そうする事によって、子供は不興を買って死ぬ事を免れて救われるでしょう」 と関連付けられているが、結果は我々自身が今刈りとっている。

また不義の性行為だけでなく,マスターベーションのような「人に知られない罪」を避けるよう言い続けることにより、見えざる 神の手は子供達の日常生活の細部にまで行きめぐり、家庭内はプライバシーの欠落した、炎熱の砂漠へと化してしまった。仮面夫婦は増え,子供たちは緊張した夫婦関係のあいだで翻弄されるようになってなってゆく。
従来、鞭打ちの刑のような 華々しい祭式である身体刑は,身体を傷つけることによって権力の存在を見せびらかすのを目的としていた。この場合の権力は「目に見える権力」「見られる権力」である。

それに対して監禁刑は,権力は姿を表わさないで,ただ監視する地味な「見えない権力」である。このような「隔離」された空間である施設は、50年代に保守的なアメリカ社会が、異質なものを抑圧するための手段であったと同時に、それに異議申し立てをしようとする作家達の抵抗、自衛の戦略となった。いわゆる社会化の要求に対して、個人における道徳的な意味での異議申し立てをする権利が強く留保される所以である。

家庭内でも同じことがいえる。むちという身体刑と家庭内での「まなざす権力」による自己自身への呪縛は,二重の苦しみとなって罪のない子供に容赦なく罪悪感を抱かせ、親への信頼を混乱させてしまう。しかしそれは「神」に対する冒?でしかありえない。なぜなら隣人の最たるものは、家族(肉親)であり,その崩壊の上にアガペーは成り立たないからだ。

【愛の二面性と成熟過程】

アガペー愛は『汝の敵を愛せ』に集約される、キリスト教の最大の教えであり、クリスチャンが目指すべき理想の愛の形態である。神への愛の特徴は、その宗教の父権的な面と母権的な面のそれぞれの比重によって決まる。父性愛の特質は,父親が要求し,規律や掟を作ることであり,父親が子供を愛するかどうかは,子供が父親の要求に従うか否かにかかっている。父親が好む息子は自分とよく似ている息子,一番従順であり,自分の後継者,財産の相続者として一番ふさわしい息子である。(父権社会は私有財産制の発達と共に発達した)。その結果、父権社会は序列的,階級的になり,兄弟間の平等は競争と反目にとってかわられる。インド,エジプト,ギリシャの文化やユダヤ・キリスト教,イスラム教などは父権的世界の典型である。そこでは男の神々とそれを支配する一人の神がいる,あるいはたった一人の「神」を除いて他の神は全て抹殺されている。

しかしながら母性愛を求める気持ちを人間の心から根こそぎにする事は出来ないので,愛情溢れる母親像が神殿から完全に放置されなかった事も不思議ではない。カトリックに比べて、プロテスタントは表面上極めて父権的だが、母権的な面を隠し持っている。母性愛は獲得する事が出来ない。それはあるか、ないか,である。母親の愛を獲得する為にできることと言ったら,信じることと自分をよるべない無力なものにすることだけである。しかしルターの信仰の特異な点は,母親が表面から姿を消し,父親になり代わっている事である。母親に愛されているという確実性にかわって,強い不安感と父親の無条件な愛を望むという不可能な願いが,際立った特徴となっている

つまり父権的な側面によって,私は神を父のように愛する。神は正しく厳格で,罰や褒美をあたえるものであり,最後には私を選んでくださる。

宗教の母権的な側面によって,神をひたすら抱擁する母親のように愛する。私は神の愛を信じる。貧乏であろうと、無力だろうと、罪びとだろうと、神=母親は私を愛し,他の子供達を私よりえこひいきすることはないだろう。私の身に何か起ころうと,私を救ってくれ,許してくれるだろう。人間の進化は母親中心的な社会構造から父親中心的なそれへと移行し,宗教もまた,同じ道をたどったので,愛の成熟課程は主に父親的な宗教の発達の中に跡付ける事ができる。

神に対する愛は、親に対する愛と密接な関係にある。もし近親相姦的な愛着から抜け出せないと,あるいは賞罰を与える父や,他の権威に依存する子供っぽい段階にとどまっていると,成熟できない事になる。神と言う言葉が部族の長を意味したり,絶対無を意味する事もあるが,問題はどこまで成熟したかにかかっている。

【不合理性を体験する必要】

人間の現実は聖書や法律よりも複雑である。しかし父権的な厳格主義は信仰の教義には都合がいいが、人間の生きる条件を無視することになる。いかに現実の生活との間に折り合いをつけるか、妥協するという能力は他の人と関わることにより育ち、社会的環境の中でこの弾力性を身につけた人が正常な人とよばれている。人間の行動は、他の人との関係としてみて初めて意味があり、そのひとひとりだけの心の問題だと見ても意味がない。 個人と社会はいつも対立するとは行かないまでも、基本的に緊張関係にあるようで,大人として自立するためには、自活の知恵や技能に秀でるだけでなく,自律的充実にまで至らなければならない,と言う課題が待ち受けている。

人間は危険を察知すると逃避傾向に陥り、ある戦略を考え出す。その一つに無能を装う戦略がある。無能なら他人から寄せられる期待や要求は小さい。また最初から失敗と決めてかかれば、自分自身に失望せずにすむ。「ここ」にいなければならないなら、そのなかに逃げ道を探すしかない。正しい答えに到達するには時間がかかる。ゆっくり考える時間が必要であるが、この時間こそがパニックをもたらす。いつになったら正しい答えを手にすることができるのか、わからないからである。不安だから手っ取り早い答え、つまり戦略に走ってしまう。こうして戦略と引き換えに不確かさに耐えられなくなってしまう。冒険できなくなってしまう。言い換えればそれは知性を失うことである。
そうならないためには、生活の中に含まれている不合理性や頽落性を、苦痛と幻滅を持って体験するところから始めるほかはない。その都度それに応じた目的の設定と手段の採用について,見通しを立てることに習熟し,行為に際しては他者の欲求との摩擦を考慮した妥協や、巧みな調整を図らなければならない。複雑な現実を無視して,聖書と神の言葉とを徹底させようとすれば,人間の生きる道はなくなる。

宗教と社会が接点を持つとき,カズイスティック=心内留保という問題に必ず突き当たる。ケース(場合,条件)の中に生きる人間のことを考える道徳神学から派生した法律用語であるが、価値観の錯綜する現代のような時代には、個々の事例に即した生き方としてこれから生の基盤になってゆくだろう。ここに興味深い一文がある。「エホバの証人側がその信仰上の教義(この場合、輸血拒否)に例外を設けて、何とか人間の現実との折り合いを、彼らなりにつけようとしていることを、私たちは正当に評価する必要がある。それは決してその教義のいい加減さを証明するものではなく、ましてや、それを逆手にとって社会の側が信者の生きる道を閉ざすような事をしてはならないのだ」。〔正義論/自由論・土屋恵一郎 2002〕 すでにこのような見方が社会の側から出始めているのは、非常に示唆的なことである。他者への共感に立つ寛容は命を生み出すが、絶対的価値体系は命を枯らす。

【終わりに―孤独との闘い】

「人の苦しみはそれを見た者に義務を負わせる」フランスの哲学者ポール・リクールの言葉(1997)は、国連の人道的介入に際して人類が直面した、絶対倫理と絶対平和とが鋭く緊張関係に立つことの難しさを表現している。・
「何か」をしなければならない。エホバの証人としてわれわれが生みだしてきた実については、すでに組織の責任ばかりにしていられない段階にきているように思われる。国家や宗教組織のような肥大した集団は、お互い相手の面子を保つ事が、最重要優先課題になりがちである。しかし個人の単位では異なった対応が出来るはずであり、そのために良心の機能が付与されている。二世問題は、その親に原因をたどることが出来るが、一世である証人たちの相克は深く、これらの問題に関する認識の度合いも、現在の境遇によって意識的に左右されるであろう。一世の場合は誰のせいにも出来ない、自らがまいた種であることを認識すればするほど、過去の或る時点での自分の決定に自責の念がぬぐえない、分別盛りの年齢であり、もう若くはない、心を割って話せる友がいない、など重い課題を引きずったまま、孤独に耐えてゆかねばならない。この二つは切り離して考えられない問題なのだ。様々の形のファンダメンタリズムが真理や正義の名において自由な言論や思想の抑圧に乗り出してきている。インターネットは声亡き元証人たちにとって苦しみの発露の場であり、生き残った戦友同士として心の交流を持つことができる新しいクリスチャン会衆の存在を可能にしてくれる。一世、二世、未信者、反対者関係なく連帯の絆を強くして新しい生き方をともに探っていきたい、と願うのは私だけだろうか。

〔参考文献〕
<問い>としての教育学::沼田裕之・増渕幸男‐編著 福村出版
精神病の脱構築::森山公男ホームページ
戦争の人間的起源::萩原能久 慶応義塾大学法学部政治学科萩原能久研究会
ふれ告げる人々
社会学感覚:野村一夫 文化書房博文社
比較現代文化入門演習:筑波大学 宮本陽一郎Cyberclass
愛するということ:エーリッヒ・フロム  紀ノ国屋
正義論/自由論:土屋恵一郎 岩波書店
人道的介入:最上敏樹 岩波新書