「以前の理解が正確でなかったことについて謝罪は必要ない」― 統治体の2023年講演を読む

2023年年次総会の講演記録と解説|発言者:ジェフリー・ウィンダー(エホバの証人の統治体メンバー)

資料について 本記事は、エホバの証人の動画講演「光はどのように明るくなっていくか」について、提供された日本語自動生成字幕(VTT、約16分27秒)を一次的な文字起こし資料として整理したものです。字幕と英語の発言については資料の性質を分けて示します。日本語記録は字幕に基づく整文です。

講演の概要

2023年の年次総会で、エホバの証人の統治体メンバー、ジェフリー・ウィンダーは、教団の聖書解釈が変更される過程を説明した。講演の中心にあるのは、神が聖書の真理を一度にすべて明らかにするのではなく、「忠実で思慮深い奴隷」と位置付ける統治体を通して、適切な時期に段階的に理解を深めさせるという宗教的説明である。

講演では、コリント第一2章10節、マタイ24章45節、格言4章18節などを用い、新たな理解が示される時期や方法を説明する。その後、使徒15章に描かれた初期キリスト教の会議を現代の統治体のモデルと位置付け、調査チームによる検討、統治体での議論、全員一致による意思決定の流れを紹介している。

特に注目されるのは、以前の聖書解釈が正確でなかったことについて、恥じたり謝罪したりする必要はないと述べる部分である。統治体は間違いを犯し得ると認めながら、教理の変更は神が適切な時期に理解を明らかにする過程として説明される。

重要な発言:「謝罪は必要ない」の意味

日本語字幕の内容(5分40秒〜6分21秒)

日本語字幕は、以前の解釈について「恥ずかしく思ったり、申し訳なく思ったりしなくても良い」と述べ、その理由を、エホバが必要な時期に理解をより正確にすると説明している。続いて「統治体は完璧で間違えることはない」ということはなく、聖句を理解し損ねたり指示を変更したりすることがある、と認めている。

英語の発言と訳語

英語の発言については、当時の講演を報じたAssociated Press配信記事で、次の文言を確認できる。

“nor is an apology needed for not getting it exactly right previously”

日本語訳:「以前は完全に正確に理解できていなかったことについても、謝罪する必要はありません」。

この表現の an apology は「謝罪」であり、単に「申し訳なく感じる」という内心の感情よりも、他者に対して謝罪する行為・意思表示を直接指す。nor is … needed は「……も必要とされない」という意味で、先行する「恥ずかしがる必要はない」という説明に、謝罪の不要性を重ねている。not getting it exactly right previously は「以前の理解が完全には正確でなかったこと」を意味する。

したがって、日本語字幕の「申し訳なく思ったりしなくても良い」という表現だけではやや読み取りにくいが、英語では、以前の解釈が正確でなかったことについて謝罪そのものを必要としないと説明している。

ただし、この発言は、教理解釈の修正一般について述べたものである。「被害を受けた人に今後いかなる場合も謝罪しない」と明言したものではなく、そうした断定は避ける必要がある。

「謝罪不要」を正当化する講演の論理

講演には次の論理構造がある。

  1. 神は聖書の真理を一度にすべて示すのではなく、時期を選んで段階的に明らかにする。
  2. 統治体は神の導きを受けて判断するが、完全ではなく、解釈や指示を変更することがある。
  3. 過去の理解が十分正確でなかったとしても、それは神が段階的に理解を深めさせる過程であり、統治体はその時々で最善を尽くしている。
  4. したがって、以前の理解が正確でなかったことについて、恥じたり謝罪したりする必要はない。

これは講演に内在する宗教的な説明を整理したものであり、教理変更によって現実に生じた不利益の有無を検証した論証ではない。

輸血拒否教理との関係

この講演が行われたのは2023年であり、2026年の輸血教理変更に対して直接述べたものではない。ただし、2026年には自己血の保存と利用、さらに他人の血液由来の主要4成分について、従来の禁止を個人の判断へ変更した。そのため、教理変更一般について統治体が示していた説明責任の考え方を検討する資料になる。

輸血教理のように信者の治療選択や生命・身体に関わり得る指導については、聖書解釈を変更する宗教的理由と、従前の指導が人々に与えた影響にどう対応するかという倫理的・道義的・社会的責任を区別する必要がある。前者を説明することは、後者についての調査、説明、必要に応じた謝罪・救済を不要にする根拠にはならない。

また、講演後半では、統治体が検討すべき問題を選び、調査を指示し、全員一致を目指す手順も語られている。こうした組織的な決定過程は、教理が個々の信者の私的解釈ではなく、組織の正式な判断として示されることを考えるうえで重要である。

出典と確認上の注意


付録:講演全体の整文文字起こし(日本語自動字幕に基づく)

以下は提供VTT字幕を冒頭から末尾まで時刻順に接続した読みやすい記録である。句読点と段落を整え、明らかな空白・文字分割を修正した。なお、字幕に由来する聞き間違いが残る可能性がある。後から付した時刻は、該当段落の開始時刻を示す。

00:00ごろ 最近の年次総会では、よりよく理解できるようになった真理が説明されてきました。聖書が教えている真理の光が明るくなってきたということです。もちろん、毎回の年次総会でというわけではありません。でも、エホバはよく年次総会のタイミングで新しいことを知らせてきました。今日も光が輝くでしょうか。クック兄弟が少し言っちゃってましたね。今日のプログラムでどんな話が聞けるか、本当に楽しみですね。でも、こんな風に考えたことがありますか?「エホバは今、この時代にどうやって聖書の真理に光を当てて、よりよく理解できるようにしてくれるんだろう?」では、「忠実で思慮深い奴隷」として働く統治体は、そのことにどう関わっていますか?

00:00ごろ エホバは光をより輝かせるために、「忠実で思慮深い奴隷」をどんな風に使っているでしょうか。まず、聖書が何と言っているか見てみましょう。4つ考えます。1つ目は、エホバが光を明るくするとき何を使うかということです。コリント第 1章 2節をお開きください。コリント第 1章 2節 10節を読みます。「神はその事柄を聖なる力によって私たちに啓示しました。聖なる力はすべての事柄を明らかにします。神の奥深い事柄さえもです。」エホバが何を使うかはっきり分かりますね。聖なる力です。聖書をよりよく理解するためには、聖なる力が欠かせません。2 番目にエホバは誰を通して新しいことを知らせますか?

00:02ごろ マタイ書 24章 45節をご覧ください。マタイ書 24章 45節。「主人が召使いたちに適切な時に食物を与えるため、彼らの上に任命した忠実で思慮深い奴隷」は一体誰でしょうか。キリストは忠実で思慮深い奴隷を任命しました。エホバは、イエスとこの奴隷を通して、私たちの信仰を強くする食物を与えます。ここまでの 2つから、真理をよりよく理解できるようにするために何が使われるかが分かりました。エホバは天から地球に情報を伝えるために、聖なる力と忠実で思慮深い奴隷を使います。3 番目に、エホバはいつ光を明るくしますか?

00:02ごろ もう一度、マタイ書 24章 45節を見てみましょう。「奴隷は適切な時に食物を与える」とあります。ここからちょうどいいタイミングがあることが分かりますね。エホバは、私たちがエホバの望むことを推し進めるために、一番いいタイミングで新しいことを教えてくれます。4 番目に、エホバはどんなペースで光を明るくしていきますか?一気にまとめてですか?それともゆっくりちょっとずつですか?格言 4章 18節から答えを見てみましょう。格言4章 18節です。こうあります。「しかし、正しい人たちの道は夜明けの光のようだ。

00:03ごろ 真昼になるまで明るさを増していく。」夜明けの光に例えられています。『ものみの塔』誌にはこう書かれていました。「この聖句は、エホバがご自分に仕える人たちに対して、ご自分の目的を徐々に明らかにしていくことを示しています。」夜明けの光が少しずつ明るくなっていくように、聖書の真理も必要な時に私たちがついていけるペー スで少しずつ明らかになっていくということです。そのことに感謝できます。実際の光も少しずつ明るくなっていく方が目に優しいですよね。真理の光が明るくなる時にも同じことが言えます。アブラハムのことを考えてみてください。アブラハムは、エホバがその時考えていたことを全部知らされたとしたら、理解できたでしょうか。

00:04ごろ イスラエルの 12 部族、モーセの律法、キリストの役割、贖い、1世紀のクリスチャン会衆、天に行く希望、終わりの日、大患難の詳細についてなどです。そんなことを言われてもちんぷんかんぷんだったでしょうし、知る必要もありませんでした。アブラハムはその時、エホバに仕えていくために必要なことを知らされていました。私たちが真の知識が満ち溢れると予告されていた終わりの時代に生きていられるのは嬉しいことです。でもその知識は、私たちがきちんと理解し、役立てられるようについていきやすいペースで与えられます。このことをエホバに感謝できます。

00:05ごろ 現代、真理の光がどのように明るくなっているか、聖書と私たちが経験していることから考えました。エホバは聖なる力を使い、忠実で思慮深い奴隷を通して、少しずつぴったりのタイミングで教えてくれます。こうやって考えると、聖書のある教えをそれまで正しく理解していなかったことを恥ずかしく思ったり、申し訳なく思ったりしなくても良いと分かります。エホバが必要な時に真理をより正確に理解できるようにするからです。「統治体は完璧で間違えることはない」ということはありません。聖句の意味を理解し損ねたり、出した指示を変更したりすることもあります。統治体はその時その時でベストを尽くしています。でも、エホバが調整が必要だと判断するとき、喜んでそれに従います。そして兄弟姉妹にもそのことを伝えます。

00:06ごろ エホバのタイミングで物事が動いていることがわかっているので、みんな進んで受け入れます。もう少し具体的に見てみましょう。先ほど聖書から 4つのことを考えました。では、統治体が集まって話し合うとき、エホバはどんなふうに兄弟たちが聖書をよりよく理解できるよう助けるでしょうか。気になりますね。ぜひ知りたいと思います。エホバは必要以上に物事を隠すような方ではありません。実際、聖書には、1世紀のクリスチャンが真理をよりよく理解できるようになったプロセスが記録されています。西暦 49 年頃、当時のクリスチャンの間に解決しなければいけないことが持ち上がりました。

00:07ごろ 問題になっていたのは、「異国人が救われるためには割礼を受けてモーセの律法に従わなければいけないのか」ということでした。そのままにしておくと、会衆がバラバラになってしまいかねません。それで、使徒や長老たち、つまり当時の統治体の元にこの件が持ち出されました。ガラテヤ 2章 2節でパウロは、「啓示があったので、エルサレムの兄弟たちにこのことを話した」と言っています。クリスチャンみんなにとって大切なこの問題を解決するために、キリストが自ら事を導いていました。そしてエホバは使徒 15章に統治体がどんな話し合いをしたか記録させました。私たちもまるでそこにいるかのように、その時のやりとりを知ることができます。聖なる力がどんなふうに働き、聖書をどう使ったか、そしてどんなふうに結論を出し、会衆に伝えたかがよくわかります。

00:08ごろ そのプロセスは今も大きく変わってはいません。一緒に使徒 15章を開いて、どんなことがあったか見てみましょう。使徒 15章 6節にこうあります。「使徒や長老たちはこの件について調べるために集まった」。大事な問題が持ち上がり、当時の統治体のところに提出されました。7節から活発な論議があったことがわかります。兄弟たちは自由に意見を交わしました。敬意を込めつつも思っていることをはっきり伝えます。そうやっていろいろな角度から問題を検討しました。同じ 7節でペテロが立ち上がります。この絵に描かれているのは、その時の様子かもしれません。

00:08ごろ ペテロはコルネリオが改宗した時にあった出来事を元に発言します。そうやっていろんな事実が検討されました。確信をつくペテロの言葉に心を動かされて、12節にある通り、一同は黙ります。ここに謙虚な姿勢が見て取れますね。兄弟たちは自分の意見にこだわったり、それを人に押し付けたりはしませんでした。みんなで心をひとつにして、エホバが何を望んでいるか知ろうとしました。今度はパウロとバルナバが自分たちが経験したことを話します。検討できる事実や証拠がさらにたくさん集まります。13節でヤコブが話し始め、エホバの考えに沿った結論が出せるよう聖句を引用します。ヤコブは、「神が異国の人々に注意を向けて、ご自分の名のための民を取り出した」と言って、アモス 9章 11、12節の通りになっていると指摘します。19から 21節でヤコブはどうすると良いかを提案します。そして 25節によると、統治体は全員一致で決定しました。22節を見ると、決定したことを会衆に伝えるために兄弟たちが送り出されたことがわかります。

00:10ごろ 決定に至るこのプロセスを調べると、兄弟たちが聖書を使い、キリストのリーダー シップに従い、聖なる力の流れに合わせようとしたことがよくわかります。エホバは決定に至るこのやりとりを聖書に書かせました。隠したりはしませんでした。今でも同じようなプロセスで決定が下されています。2010 年の『ものみの塔』誌にはこうあります。「霊的な事柄を明確にするときが来ると、聖霊は、忠実で思慮深い奴隷が、それまで理解していなかった深い真理を識別できるように助けます。統治体は一団として説明の調整について検討します。

00:10ごろ そして、わかった事柄をすべての人の益のために公にします。」今のプロセスはだいたいこんな感じです。まず、何かの疑問が持ち上がります。統治体のメンバー が自分で聖書を読んだり、勉強したりしている時に疑問を感じることもあります。あるいは、信仰を強める食物の準備や翻訳の途中で、さらに検討が必要なことに気づく場合もあります。世界で起きている出来事がきっかけで、予言をもっと調べなければいけないと気づくこともあります。こんなふうに疑問が持ち上がります。そして、それは統治体の話し合いの議題に含められます。

00:11ごろ 統治体はまず次のことを判断します。今考えている疑問について、さらに調査する必要があるだろうか。この段階では、まだ調整が必要かどうかを判断しているわけではなく、もっと調べるかどうかを決めます。さらに調査すべきだということになれば、リサーチチームが編成されます。調査し、結果をもとに統治体に推薦案を出すためです。チームは 1879 年以来、私たちが発行してきた本や雑誌で、そのことがどのように説明されてきたかを調べ、概要をまとめます。さらに、検討している聖句の文脈から何がわかるかを調べます。

00:12ごろ 同じ出来事が、聖書の別のところにも記録されている場合があります。そういう記述からわかることも調査します。最後に、聖書が書かれた元のヘブライ語やギリシャ語の意味合いも考慮します。そうして調査結果がまとめられると、その件はもう一度統治体の話し合いの議題に含められます。統治体のメンバー 一人一人は話し合いの前にまとめられている情報を調べ、じっくり考えます。そして統治体の会合でこのことが話し合われます。よく祈り、エホバの聖なる力に導いてもらえるようにします。会合の時は誰も結論を急いだり、自分の意見を押し通そうとしたりしません。でも、調べたことやじっくり考えたことをもとに、自由に意見を交わします。

00:13ごろ 先ほど考えた 1世紀の統治体の話し合いと同じです。みんな謙虚な姿勢でそうします。自分の意見にこだわったり、それを人に押し付けたりしません。むしろ、みんなで心をひとつにして、エホバの考えを見極めようとします。エホバがどの方向に舵を切ろうとしているかを知ろうと努めます。目指しているのは、エホバの考えに合った判断をすることです。時には最終的な決定が、リサーチチ ームが挙げてくれた推薦案とはかなり違ったものになることもあります。でも、忠実で思慮深い奴隷が聖なる力に導かれて決定していることは確かです。

00:13ごろ 全員一致で決定できるようにします。調整が必要そうに思えても、全員が賛成していないなら、まだ決めるべき時ではないのかもしれません。そういう場合は、急いで進めるのではなく、一旦保留にします。少し経って、あるいは数年後に再び検討すると意見がまとまるということもあります。前回は十分理解できていなかったことが分かり、確信を持って決定できるようになるということもあります。こんなふうに、よく祈り、全員一致で結論を出せたら、エホバが物事を導いていることを確信して兄弟姉妹にお知らせできます。今お話ししたようなプロセスを経て、真理の光は私たちの時代に明るさを増していっています。

00:14ごろ 確かに、「どんなふうに真理の光が明るくなるか」ということは興味をそそります。でも、私たちの胸を打つのは、「どうして光が明るくなるのか」ということです。アモス 3章を開いて一緒に読みましょう。アモス 3章 7節にこうあります。「内密のことを預言者に啓示してからでなければ、主権者である主エホバはことを行わない。」ここからエホバの私たちへの信頼が伝わってきますね。揺るぎない愛も伝わってきます。エホバが私たちを教え、これから何が起きるかを伝えて準備させてくれています。ぴったりのタイミングで必要なことを知らせてくれます。

00:15ごろ 本当に安心できますね。この世界の終わりが近づくにつれて、サタンはますます激しく私たちを攻撃してきます。でも、大患難でサタンの支配する世の中が滅ぼされる時が近づくにつれて、エホバはさらにたくさんのことを教えてくれます。神エホバは何があっても私たちから離れず、大切なことを理解できるよう助け、導いてくれます。どこに行ったらいいか、何をしたらいいかわからなくなることは決してありません。闇の中をさまよってつまずく心配もありません。エホバはこう言っているからです。「正しい人たちの道は夜明けの光のようだ。

00:16ごろ 真昼になるまで明るさを増していく。」


編集上の注記

  • 字幕の「コリント第1章2節10節」など、聖書の章節番号に明らかな認識の乱れが見られる箇所は、本文の解説では文脈から「コリント第一2章10節」と整理した。一方、付録には原字幕の流れを可能な限り保存した。
  • 「啓示/掲示」「ものみの塔/ものみの党首」など自動字幕特有の誤変換は、読みやすさのため明白なものに限って補正した。
  • 時刻、段落区切り、強調、記事本文の分析は編集者による付加であり、講演自体の構成見出しではない。
  • 本記事の批判的分析は筆者の評価であり、統治体自身の見解と区別している。